網路城邦
上一篇 回創作列表 下一篇   字體:
長篇電影小說:《水色嘉南》 ~台灣水利先驅八田與一傳~日文版2
2015/05/12 17:50:36瀏覽799|回應0|推薦0

.

長篇電影小說:《水色嘉南》

.
~台灣水利先驅八田與一傳~日文版2
.

《水色嘉南》

.
八田与一


.

日本が台湾を領有した50年の歳月、後先登場する後藤新平(ごとう しんぺい)民政長官、明石元二郎(あかし もとじろう)総督、人類学者の鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう)、台湾縦貫鉄道技師長の長谷川謹介(はせがわ きんすけ)、水利技術者の八田与一(はった よいち)、台湾医学衛生先駆者、高木友枝(たかぎ ともえ)、上水道、下水道建設先駆者、浜野弥四郎(はまの やしろう)など台湾の衛生環境の改善に著しく貢献した歴史的人物の中、台湾学者が最も好んで取り上げ、台湾の一般民衆が最も興味を抱く人物は間違いなく八田与一であろう。八田与一が担当または参加したしたことのある「桃園大圳」、「日月潭水力發電廠」桃園大圳」、「嘉南大圳-烏山頭水庫」「大甲溪水力資源調查」など重大な水利開発、水利工事は台湾農業や電力現代化の基礎を築き、80年の歳月を隔て、なお台湾人民の生活に壮大な影響を与え続けている。

 八田与一の業績は台湾の明治時代、大半の台湾人民の生活改善であり、そのため、台湾人民は多くの敬愛と景仰の念を抱ている。八田与一に対する感謝の表れとして、当時日本の敗戦、中国国民政府の台湾接収、こうした国民政府台湾の統治開始時、日中戦争で累積した日本に対する恨みや憎しみのため、ほとんどの日本人銅像は取り壊されたのにも関わらず、八田与一の銅像は唯一嘉南農田水利会の保護のもと、現在台湾の烏山頭貯水池に設置されている。

 八田与一の成功の裏には忘れることのできない妻;八田外代樹(とよき)の支えがあった。この脚本は八田与一と妻外代樹が台湾で共に生活した30年間(19161945年)をメイン場面として描かれている。

 八田与一は遠見卓識の技術官員であり、水利技術官員の仕事の特性でもある派遣や出張のため、普段は東奔西走の日々を送っていた。夫がこのような単身赴任の生活を送っている最中、妻の外代樹は常に孤独な生活を強いられることになったが、彼女は最後まで何一つ愚痴をこぼさず、妻としての勤めを果たしていた。特に八田与一が仕事上、困難や挫折に直面した時、外代樹は断固として夫を励まし、その都度適切なアドバイスを八田与一に与えていた。後世の人たちが残した史料の中から見られるように、八田夫婦は艱難の時代背景の中で、お互い強い愛情をもっていた。60年の歳月が過ぎた現在、八田夫妻の熱い絆はいつまでも我々の心を動かし続ける。

 

本編脚本の作者は石川県「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の事務局長をお勤めします中川外司様とテレビ金沢様から依頼を受けまして「澤之女(金沢の女)20回連続ドラマを、脚本原本の内容を濃縮させて完成させました。この「澤之女」は金沢テレビ様に主導権をおき、国内無線テレビ放送局やテレビ放送局様の業者様たちと結協力し、来年には台湾と日本の二国それぞれで撮影を展開していき、今回で史上第一部目となる日台共同撮影ドラマにしていきたいと思っています。このドラマを通じ、日台外交関係、日台の都市交流(台南県と石川県)や文化交流(日台の撮影関係者の行動勤務)の促進、また観光発展を促すといった成果を生めるよう望んでいます。なのでこの「澤之女」の放送が台湾現大統領、馬英九の「文化外交」の政策に基づき、日本と台湾とのコミュニケーションをさらに深め、歴史に深く刻むことができると思います。

 

・ドラマのあらすじ~

 

大正六年(1917年)七月下旬、八田与一と、水利係長阿部貞寿、技師の蔵成信一、それに何人かの部下たちはみな桃園大圳の工事に参加していた。主要水道工事の進度はとても順調であった。そのころ八田与一は電報で実の母が病で寝たっきりになっていると知り、地元の後輩でもある蔵成信一と共に帰郷することにした。八月の初旬、嘉義庁庁長の相賀照郷は桃園大圳の工事を参観した後、土木課長山形要助に嘉義庁に協力して田畑の灌漑の問題による水源不足を解決してくれないかと依頼された。山形は技師を嘉義庁に手配し、急水渓等の主要渓流の実地調査に向かわせることを承諾した。

 八田与一と蔵成信一は日本に帰国した後、まず先に自らの先生、広井勇教授のもとを訪問して、その後実家に戻った。実家に戻ると驚くことに母親はなんら病気も患っておらず、逆に家族が与一に一早く結婚して家庭を築いてほしいと望み、お見合いをさせるため嘘の報告をして実家に呼び戻したのだった。

三番目の兄八田智証がそのお見合い相手の米村家の娘、外代樹を見つけてきた。二人が見合いを行った当時、外大樹はたったの16歳であったが、とても聡明で賢く、しっかりとした見解を持っていた。当時外大樹は自分の年の若さゆえに、進学を望み、見合いに対してはまったく関心を持っていなかったという。ある日、外大樹は従妹の佐藤秀子と共に石川県河北郡津幡町の利迦羅不動寺に参拝に赴いたとき、二人はうっかり逸れてしまう。外大樹は運よく出会った悲愴の地蔵菩薩にひざまずき額ずいたが、彼女は当時その地蔵菩薩が何を意味するのかに気づいてはいなかった。まるで彼女がその後烏山頭ダムで自らの身を犠牲にすることを予言するかのようであった。

 与一の三番目の兄、八田智証は与一に蔵成信一と共に招待状を持たせ、米村家を訪問させた。与一は仕事服のまま訪問したため、外代樹はうっかり水電工事の係員と間違い、米村家の水道、電気の検査を与一に依頼し行わせてしまった。外大樹が自分の勘違い知ったとき、これにもない恥ずかしさを覚え、与一にひたすら詫び入った。この時与一も外大樹を米村家に使える奉公人と勘違いし、外大樹の大きな怒りを買ってしまうこととなる。

 外大樹はこの自分より年のいった年配の男を嫌った。与一と信一が米村家を離れたとき、外代樹は奉公人の阿操にお見合いの際自分たちの身分を入れ替えて行ってみようかと、やんちゃな場面を見せる。米村家大黒柱、父親の吉太郎は自ら与一が修理した場所を見て、それがかなり立派であることに好感を持ち、後ほど八田家を訪問し謝礼を述べた。だが外代樹は与一に対する印象はなかなか良いものではなく、さらにお見合いを拒絶するようになり、親友の吉永小荷を自分の代わりとして与一に、このお見合いには困難があるのでなかったことにするようにと発言させた。与一はそのことを知った後、立派な風格でことに対応し、その後、博得秀子、子荷らに好感を与え、外代樹にその固執した考えを捨てるように説得し、その時初めて外代樹の態度が和らいだ。

ある日、外代樹と秀子、子荷3人で町でショッピングをしていたとき、運悪く与一と後輩の前田秋美が喫茶店でなにやら楽しそうに会話をし、お茶を飲んでいるところに出くわす。外代樹は与一の釈明を聞くこともなく、秋美を与一の彼女だと勝手に思い込み、お見舞い時には奉公人と身分を入れ替え、与一に仕返しをすることをたくらんだ。

八田与一の後輩、前田秋美は名門の出自で、ひそかに与一に恋をしていた。今回の日本帰国と、偶然出くわしたことがまさに彼女の心を大きく動かしていた。秋美の出現後、外代樹の口調は大変過激で、度を越えるようになった。

吉太郎はこの何事にも着実な与一を好んでいた、が妻の米村琴は河野坊ちゃんも悪くないと二人言い争いにもなった。話し合いの中で外代樹は父は結婚に対してそんなに強く要求はしていないと知り、少し心が軽くなった。

米村家と河野家のお見合いが終了した後、子荷と秀子河野洋平はショービニストであることに強い反感を持っていた。八田与一とのお見合いが近づくと、外代樹は仲の良い彼女の存在を父親吉太郎に告発したが、吉太郎はそんなことがあるだろうかと疑いの態度をとった。

二人のお見合いの当日、全員が席に着席した後、奉公人阿操は正式な和服を着て気品あふれた姿で登場した。外代樹と秀子は逆に奉公人の洋服を纏い装った。米村吉太郎は目の前の出来事に大変驚き激怒したかったがその気持ちを無理やり押さえつけた。八田智証と与一は目の前の美しい阿操の姿を見てこの偽の外代樹にはまったく気づかなかった。その反面、外代樹は吉太郎の背後から父親の顔色をずっと窺っていた。吉太郎は智証が偽者の娘を褒め称えているのをただ気まずそうな様子で聞いていた。吉太郎の異変に気づいた智証は吉太郎は娘より年長の弟があまり気に入ってないのではと勘違いしていた。一方奉公人の阿操を好きになってしまった与一は、以外にもその場で立ち上がり、吉太郎に偽の娘(阿操)を嫁にと頼み始めた。その時吉太郎は唖然とし、言葉を失ってしまった。このお見合いが終了した後、外代樹は父親吉太郎に子こっぴどく叱られ、今後相手側にこの事を暴かれないようにするため、吉太郎は八田家との結婚話を諦めることにしていた。

 与一はひがし茶屋街で奉公人の阿操が買い物をしていてとても大変そうに自転車を引いているところに偶然出くわす。与一はまだ阿操が米村家の娘外代樹と勘違いしており、一時はっとしていたが、彼女自転車が突然壊れてしまいとても困っている様子を見て居ても立っても居られず、近くに寄って行き自転車を修理した。阿操は急に自分の身分を知られるのが怖くなり、それなりの口調で振舞った結果、与一には気づかれなかった。後阿操は与一と会話の後、与一はとてもすばらしい人だと気づき、与一と外代樹の結婚を仲介したいと思った。阿操は家へ戻ると早速外代樹に今日の出来事を話し、与一のすばらしさを知ってもらおうとした。が、外代樹はまたそれを阿操が与一を好きになってしまったと勘違いし、またまた米村家の奉公人を装って八田智証診療所に電話を入れ、米村家の娘と「兼六園」へのお出かけの誘いをした。その日の夜与一は文机の上で彫刻をしていた。頭の中で米村家のあの奉公人(外代樹)の容貌を思い浮かべ、それを木材の上に彫っていった。そのとき兄の智証がやってきて、米村家の娘が積極的にお誘いを申し出ていることを話し、与一にこの絶好の機会を逃すなと念を入れた。

 「兼六園」で米村家の娘を装った阿操と与一との会話は大いに弾んだが、あいにく天気は急に悪化した。与一は東屋で雨宿りをしようと提案したが、阿操はこれは外代樹と与一を二人っきりにするチャンスだと嘘の言い訳をし、その場を去った。始めは二人向き合ったまま沈黙を保っていたが、しばらくして与一は無理やり沈黙の均衡を破った。与一は自分が作った彫刻を外代樹に愛慕の情を暗示してプレゼントしたが、外代樹はそれに気づかなかった。

 外代樹と秀子が二人でショッピングを楽しんでいるころ、東茶屋の露天茶店でまたまた運悪く与一と秋美に出くわす。外代樹は秀子が止めに入ったの押しのけて、奉公人の身分を装い与一を皮肉り、さらに彼女がいるのに米村家の娘とお見合いをしたなんてあるまじきことだと怒鳴りつけた。その時、秋美は与一は自分に一番ふさわしい結婚相手であると自ら愛情を表示し、結婚した後は共に京都へ戻り定住すると言い放ったが、与一は台湾での仕事を手放すことができなかったため、秋美との関係は進まないままであった。

 外代樹は与一はただのプレーボーイだと決めつけ、与一のことがよく理解できないでいた。与一はそのころ信一との会話で、正直自分は米村家の奉公人(外代樹のこと)が好きだと告白する。二人の話を聞いてしまった智証は、与一と大学時代同級生だった中川医師の妹、中川暁月とのお見合いを計画し始めた。

 蔵成信一は東茶屋街で秀子と出くわす。その時、信一は与一が好きなのは「偽者の阿操」であることを打ち明けたのに対し、秀子は驚きを隠せなかった。智証の計画のもと、八田与一と智証の同級生の妹、中川暁月と知り合った。暁月はファッションデザイナーを務めていて、外見はすっきりしていて、美しく、性格は優しく親切でとてもいい人であった。暁月は与一に一目で気に入ってしまって与一が台湾に行って発展することを支持した。

 秀子から与一は偽者の「阿操」が好きであると聞いて、外代樹は信じることができず、しかもすでに河野坊ちゃまとのデートを承諾してしまっていた。そこで外代樹は秀子を付添い人として連れて行くことにした。

 与一は暁月に付き添い兼六園へ赴いた。そこで河野坊ちゃまとデート中の「阿操」と出くわす。与一は阿操のような美しい娘には主がいると思い込み、とても落ち込んだ。暁月は与一の経験豊富で知識が広いことに強い関心を抱き、手作りのマフラーを与一にプレゼントした。このような行ったり来たりの中、中川暁月の与一に対する感情はどんどん暖まっていった。

 外代樹は秀子と共に自転車に乗りながら西茶屋街に買い物に出かけた。その時、以外にも河野坊ちゃまが二人の友達と酔いつぶれて妓女を抱きながらいちゃいちゃしているのを見かける。外代樹はそれを見て向きを変え離れていった。これまで見てきた河野に対する印象は最悪なものとなり、もう二度と河野坊ちゃまとは付き合わないことにした。その後外代樹は東茶屋街で買い物をしていると、前田家の三人組に囲まれ、彼らから悪ふざけを受けた。そこに与一と信一がちょうど通りかかり、外代樹たちを守るため駆け寄り、双方の衝突の中、与一は左手の尺骨を骨折してしまい、すぐさま米村病院で手当を受けた。米村吉太郎と八田智証は藩主の前田正行の屋敷を訪れ、公正な道理を訴え、前田正行はその三人組武士たちを処罰した。入院して治療を受けている八田与一は

外代樹のことを恋しく思っていた。それは夢の中でも展開され与一が「阿操」と呼んだとき、外代樹がちょうど与一のてを握っていた。ちょうどこの時、外代樹の心はすでに与一を受け入れたいた。麻酔が切れ、与一が目覚めると、外代樹は与一に自分は米村家の奉公人、阿操を装っていたことを包み隠さず打ち明けた、そして与一が求婚してくるのを待っていた。

 中川暁月は与一が怪我を負ったと聞いて、すぐさま病院に駆けつけた。与一は暁月に自分の心は外代樹にあると打ち明ける。だが暁月は外代樹が与一をからかっている姿を見て、不満を深く感じる。暁月は病室を離れる時、与一に良く考え直した後、自分のところへ戻ってきてほしいと願っていた。蔵成信一は東茶屋街で秀子に出くわす。秀子が外代樹の阿操変装の件を信一に説明したとき、彼は釈然とした様子で、これは与一と外代樹の所縁だと思っていた。ことが順調に運んでいるときに、外代樹は秀子から与一と中川暁月との見合いの件を知り、病院で与一に解釈を求めた。与一はただ仲の良い友達だと言い張ったが、外代樹はやはり忘れずに、与一に男女友誼には十分気をつけるようにと注意を促した。与一が退院し、外代樹との結婚が既に確定した。その後、与一は結婚式の招待状を持って京都に向かい、恩師広井勇教授のもとを訪れて自分は結婚して家庭を築くと報告しに行った。広井勇はうれしさを隠せなかったが、それとは裏腹に与一には日本に残ってもらい、自分の古跡建設に協力してほしいとずっと願っていた。だが与一の心は台湾に向いていることは知っていたので、結果的に与一に一時的に京都に残ってもらい、現場を一緒に回ってアドバイスしてほしいと頼もうとしていた。与一が金閣寺にいたとき、意外にも秋美との再開を果たす。与一が急いで京都を離れようとしたとき、広井勇の依頼のもと、京都に残らざるをえなくなった。その後秋美の厚意な持て成しに断りきれなかった与一は酔いつぶれ秋美のアトリエで酔い倒れてしまう。翌日目が覚めた与一は自分がパンツ一枚の姿でいることに驚き、秋美と共に同じ部屋で過ごしたことを悔やみに悔やみきれずにいた。その後秋美が金沢に戻り写生したいという理由で、与一と共に金沢に戻ることにした。

 そのころ信一と秀子の関係は次第に近くなっていき、二人は一緒に兼六園に出かけたとき、ちょうど写生していた秋美とそれに付き添っていた与一を見つける。秀子は二人の関係に疑問を抱くが、信一のサポートのおかげで、それ以上は追及しなかった。与一と秋美二人は東茶屋街でお茶を飲んでるところを害代樹と阿操二人に目撃された。外代樹はすぐさま駆け寄っていき、大々的に与一の罪をとがめた。秋美はなんと自分は与一と一夜を過ごしたという事を外代樹に言い払った。外代樹がこの上なく傷つき去っていった姿を見て、与一は胸が張り裂け、酒に手を出し憂さを晴らそうとした。その与一の悲しんでいる姿を見ていられなくなった秋美は全てと打ち明けることにし、外代を兼六園三芳庵に呼び出し、全てを説明した。それを聞いた外代樹は与一に対する信頼をもう一度取り戻すことができた。

このような波乱万丈の恋愛の最後には与一の誠実な様子が外代樹の心をつかみ正式に夫婦となった。

 八田与一、米村外代樹夫婦は蔵成信一と佐藤秀子の仲介を取り持つために自分たち夫婦と信一、秀子四人共に能登半島へ旅行の計画を提案した。信一は旅行の途中秀子に求婚を持ち出し、休暇もあと残すところわずかという時に信一と秀子二人は先に婚約の手続きを済ませ、台湾に居留した後に結婚式を挙げるつもりだった。こうして二組の新婚は米村家の奉公人阿操を連れて、台湾での新しい人生展開の準備をした。

桃園大圳公務所の中で阿部貞寿は電報で与一と信一が明日家族を連れ帰ってくるという知らせを知る。与一外代樹、信一、秀子、阿操の五人は蓬莱丸の乗り込み、台湾北部の基隆港に到着する。外代樹と秀子は目の前の景色に目を取られてしまった。基隆港埠頭には阿部貞寿と小原一策が両手を大きく振りながら彼らを迎えた。与一は船を降りるなり、早速大圳工事の状況がどうなっているのか聞きたくて仕方がない様子であった。

 貞寿と一策の引率のもと、与一一行は台北市西門町の新居に到着した。新居の庭園風景は外代中に金沢の実家を回想させるのであった。突如騒がしくなったと思いや、大家さんの妻満妹が箒を持ち、アヘンを吸った夫を追い掛け回していた。秀子はこの新しい環境に好奇心と新鮮感を抱くのだった。翌日外代樹、秀子と阿操は公営市場へ買い物に行き、新生活のスタートを切った。同じく与一と信一は彼らの人生で最も重要な大仕事、嘉南大圳水利工事の展開を始めた。

 与一は総督府に復帰し、土木工事報局局長、山形から新婚祝賀の意を受けると共に、新しい挑戦となる南部の水利資源実地調査の依頼を受け、与一は興味津々で、喜んで依頼を引き受けた。

 外代樹ら3人は市場で買い物を済ませ、路地を通りかかったとき、窃盗犯に出くわす。が、ちょうどその時満妹の息子、林信義が通りかかり、3人を助けるため窃盗犯と取っ組み合いになった。その末、物は取られなかったものの、信義は名誉の負傷を負う。その日の夕食時に外代樹は正午に起きた出来事を与一に話し、与一と外代樹は感謝の意を持って自ら満妹家に赴いた。その時与一は信義が失業中だと知り、ちょうど人手不足だったのでと、信義に自分の助手と勤めるようにと提案し、共に中南部の水利実地調査に行くことになった。

 今回実地調査の出張は2,3ヶ月の期間になる予定であった。外代樹は与一の荷物を整理すると共に、自分で山道の毒蛇防止用の長靴を自ら製作した。秀子も信一のため荷物を整理していた。部屋にはそんな二人の重々しい空気が漂っていた。そんな中満妹は外代樹と秀子、阿操3人を率いて、共にマンゴーを杵で打ち砕き、マンゴーの漬物の作り方を教え、夜彼女らを台北駅の裏通りにある夜市へと向かった。満妹は彼女らのために台湾夜市の特徴や地元の美食などを紹介した。今まで見たことがなかった牡蠣オムレツなどの台湾の料理に外代樹と秀子は好奇心を抱くのだった。

 与一一行は台中庁の土木課工務所に着き、所長の山根長次男は彼らに大甲渓を実地調査する際の注意事項とたぶん起こるだろうという危険などを説明した。山根所長と与一一行は東勢鎮に到着し、豪田局長の短いスピーチを聞きに行った。朝早く、台湾原住民泰雅族の技師、瓦歷斯貝林さんと豪田局長の誘導のもと、四名の優能で腕もいい武装巡査が保護について、いくつかの部落を経由しこっそりと後を尾行した。山間の狭い道で急に飛び出してきた十人の武装生蕃たちに止められ、貝林が前へ出て彼らと会話をした。

、与一一行は台湾中西部に位置する大甲溪上流への山岳地帯に入っていった。そのころ既に日は暮れていたが、台湾高山族、生蕃たちにこちらの居場所を見つけられないように松明に火は点けられなかった。彼らは自ら持参したおむすびやビスケットを食料としていた。突然毒矢が与一に向かって飛んできた。その時信義は咄嗟に与一を押し退けたため、矢には当たらず命拾いをした。三日目の夜、与一一行は安全に「明治」(谷関)温泉附近に到着し、部落の族長は宴席を設け、ねんごろに彼らをもてなした。そのころ外代樹は与一が襲撃を受け命を落とす夢を見て、飛び起き不安で寝付くことができなかった。

 外代樹、秀子、阿操と満妹は八田家の客間に集まった。外代樹は昨日の縁起の悪い夢を見たため、満妹に近くに御利益のある寺院はないか、そこで与一に神のご加護をと参拝しに行きたいと頼み込むと、満妹は龍山寺に行くことを提案する。彼女ら4人は果物のバスケットを持って龍山寺へと向かった。果物を金色の紙に一つずつ包み込み、机の上に並べ、観音菩薩に向かい線香を上げ、家を離れた家族たちの平安を願った。

 翌日族長葛西観は与一一行を見送り、一行は濁水の上流へ森林に沿ってまっすぐ進んでいた。貝林はキョンなどの小鹿を狩りみなの食料などに当てた。阿部貞寿は進行中に毒蛇にかまれ、瓦歷斯貝林さんは至急解毒作用のあるハッカクレンを見つけ出し、貞寿の治療に当たったため、命に別状はなかった。調査を遅らせることができないとして、二名の武装巡査と貝林が阿部を明治部落に運んで休憩させることにした。一行はそのまま続けて進行した。高山の寒気が彼らを襲い、火を焚くことのできない状況で、皆は半分生肉の小鹿肉を食べていた。貝林はすぐさま一行と合流し、彼らを連れて隠された天然洞窟に入り火をおこして体を温めた。

台北市西門町の八田家客間に外代樹、秀子、阿操、満妹が集まり、晩飯を一緒に食べながら実地調査隊が標高が高く、かなり険しい河川上流へ入って行くことについて話していて、皆与一一行の平安がとても心配であった。その日の夜、外代樹と秀子は窓から月を眺め、遠い山奥にいる与一と信一のことを思っていた。二人は水利技師の主婦を勤めているのは百も承知なので、どんなに寂しいが、ただひたすら我慢するしかなかった。

二日後一行は部落(現梨山)の入り口に到着した。貝林は部落の族長の同意をもらい、みなを引き連れてこの部落に何日間宿泊すことにした。これを機会にみなこれまでの実地調査の資料を整理し、与一は山根に貝林を出向させ、後の菜七家湾渓測量を展開させた。その夜、泰雅族のサラマオ(Saramao)に宿泊した。サラマオ族長尤幹は自ら接待をし、調査終了後、またこの部落に戻り酒や食べのもを用意しみんなで宴会をしようと双方の間で約束を交わした。そのころ外代樹と秀子は自分の夫を思っていた。秀子は金沢に帰り結婚式を挙げたいと外代樹に伝えた。

翌日一行は南湖渓に行き、信義は測量計を背負い、信一と共に谷間に下り地形と地質について調査していた。貝林は与一と山根らに南湖渓の地形と水路について紹介した。夜みなは南湖渓附近でテントを張り駐屯した。そのころ満妹は外代樹と秀子に編み物を教えながら会話していた。

合観渓に到着した後、貝林は貯水区の状況について解説した。観察後、与一はここはダムを建設するのに最も適している場所だと気づく。道中貝林はみなを連れて野渓温泉へ行き、疲れを癒した。夜一行は族長尤幹の厚意のもてなしを受け、みなで粟酒を楽しんだ。宴会が終了した後、明治温泉に寄り、阿部貞寿と豪田所長の部下の二名巡査と合流し、次に重点を濁水渓上流の調査に置いた。

十月の中旬与一一行は水里溪附近の原住民思麻丹社(shavatan)の村に到着した。思麻丹社の原住民の人たちは自らを「邵族」とも呼んでいた。そこで彼らの姫、米雅と知り合い話を聞いた。日本政府機関は昔高山族の部落に多大な危害を与えたとして、彼らは日本人を目の敵にしていた。与一は信義を通訳として話しをしてた。信義の努力の詮があって米雅はだんだんと心を許し、与一らに代わって邵族の族長、西那瓦南を訪問し、双方の水利開発建設工事の件について話し合いを許された。

 こうした邵族との共同会談の時間が増えるにつれ、信義と米雅の感情が増していき、後ほど信義は与一に南下実地調査に彼女を同行させてはとの提案を持ち出すこととなる。与一は信義を何度か冷やかしたが、快くその提案をんだ。

 一方、ある日外代樹と秀子は通りで饅頭屋の店長、郭水生に追いかけ回され、叱られていた孤児院の子供陳来成に出会う。彼女らは今の孤児院の状況を理解した後、外代樹は孤児院に協力することを決める。彼女の慈愛の心は近所の熱い賛同を受けることになる。

 与一一行は直接太魯湾の富士(現盧山温泉に到着し、Seediq族の頭目、馬赫坡社の莫那‧魯道に出会い、接待を受けたが、この高砂族と日本人の間にできた大きな矛盾を感じ取ることができる。

与一とその一行は嘉義庁土木課工務所に到着し、庁長の相賀照郷と対面し、二人はその時の嘉義南平原水不足の状況について討論を始めた。同時に精糖株式会社が、甘蔗の生産量と会社利益の関係が深いという理由で、工事利益の分配を請求してくる可能性が高く、工事が行き滞っているなどの話しもされた。

その夜彼らは公務接待所に宿泊した。柴田一郎所長は地主の身分として彼らに付き添った。

 このころ台北の西門町で満妹の庭園を整地して、瓜小屋を組み立てていて、みな忙しくててんてこ舞いであった。

冬季、嘉南平原一帯は枯れはていた。与一一行は急水支流の亀重渓の調査へ向かった。そこで与一らは川岸附近に住んでいた現地の農民夫婦に出会った。農民夫婦はとても貧しく苦しい生活を送っていて、その生活も天気に左右されるなど、ほとんど神頼みのものだという。この話に震撼された与一は総務省の財源の制限を考慮し、もっと水量の多い渓流を見つけ出し、灌漑と水力発電の双方を考え、この嘉南平原給水問題を解決してみせると農民と約束した。

 与一と実地調査隊は台南庁嘉南平原海岸、曽文渓流の出口北門庄に到着し、現地の農家に飲み水のことについて話し合った。その時この周辺に住んでいる農民たちの水の使用がかなり不便であるのに気づき、与一はこれから全勢力を挙げて水利施設を改善し、農家一軒一軒に水を送ることのできるようにすると農民たちと約束した。曽文渓流上流の調査が終わった時、与一は幹部と共に官佃渓上流に大きなダムを建設し、また主要水道を修正して、曽文渓流の水をそのダムに溜めることができたら、嘉南平原の水不足問題を解決することができると推測した。

そのころ満妹の庭園には、すでに野菜の苗を植えつけていた、と同時に阿操と水生の恋の苗も成長中であった。

しばらくした後調査隊は官佃渓上流の烏山頭地方で、清の時代とオランダ台湾統治時代に建設されたと思われる小型の水利施設の遺跡を発見する。与一たちは昔の人たちもここ一帯が最も優良な取水地点だと思っていたに違いないと思い、この発見が皆の士気を鼓舞した。

 十月下旬のある日、孤児院でインフルエンザが流行し、多くの孤児は病気に倒れた。しかし外代樹は秀子や水生の協力の結果、疫病発生の悪化を抑えることができた。

その夜、与一は渓流横の砂地で火をおこし皆で囲み温まりながらスープを煮込んで、持参したビスケットと共に食べた。帰る途中与一は信義に先に米雅を部落に安全に送り返してくるようにと命じた。

 与一、信一、阿部は台南庁に行き庁長枝徳二を訪問しこの水利工事計画について討論した。枝庁長は与一に今回の大規模な水利建設工事に当たっての経費の出所をちゃんと確保するようにと注意を促した。庁長室を離れた後、阿部は枝庁長は口先だけで褒め、協力する気など全うになく、わざとこちらを困らせようと意図してるのではないかと疑いの念を抱くが、与一はこれは枝庁長の善意からの注意であると解釈した。

 塩水港製糖株式会社の社長、荒井泰治は総督府土木課が嘉南平原に大型水利灌漑施設を建設する計画を立てているという情報を知って、とても緊張した様子で、嘉南平原にある主要精糖同業者を招集し、会議を開き、対策を練ることにした。その後、荒井は自ら土木課長の山形に電話し、ダム建設計画の取り消しを迫った。電話を切った後、山形課長の顔色は重々しく、どうやって荒井たち業者の妨害に対応しようかと悩んだ。

 与一と阿部は総督府土木課に戻り今回の実地調査の状況を山形に報告した。山形はその時、どんな困難や他の邪魔が入ってもダム建設を支持し続けると決心し、そしてまた与一がダム建設の報告書と企画書を提出した後に、妻を連れてハネムーン旅行に行くことを許可した。

 信一が帰宅すると家には人影がないのに気づいた。隣の満妹に二人の婦人と一人奉公人の行方を聞きに行った。満妹は自分の息子の状況について信一に聞きながら信一を孤児院へ連れて行った。その時、信一はこの実地調査のことについてや秀子は結婚のことを気にしているということなどを話した。満妹は先に庭園に信一を連れて行き、この野菜は孤児院の孤児たちに食べさせてあげるものであると説明し、その手伝いをしてくれている水生のことも紹介した。夕食後、与一は外代樹夫婦二人客間で、今回出張中に起こった発見、驚きや恐怖、それに信義と邵族の姫、米雅の恋愛物語などすべてを外代樹に聞かせた。

しかし、ある業者達に嘉南平原水利灌漑計画を阻害するような動きが見られるという話をした時、与一の心はとても重々しくなり、困った様子を見せた。外代樹はこの話を聞いた時、父親吉太郎が昔自分に聞かせた「四苦八苦」の物語を聞かせ、与一を激励し、それを聞いた与一はとても感動し、元気付けられたた。

 話は変わり、製糖会社の業者は遊説計画を展開し始める。彼らは先に枝徳二にこの水利工事計画の中止に協力してほしいと頼んだ。が枝徳二は自分は派遣任官の身分で、上級政策の執行を任されており、協力したいのは山々だが、どうすることもできないと表明した。遊説団がその場を離れたとき、枝徳二は相賀庁長に電話で連絡し、この何日間、その製糖業者の社長遊説団が嘉義庁を訪問しに行くことを報告し、対応の注意を促した。

 与一が家で計画書を整理しているとき、外代樹は信一と秀子の二人は金沢に戻って結婚式を挙げ、孤児院の修復のため募金活動に参加する予定だと与一に話す。その時山形局長から電話があって、今晩彼が与一家を訪問すると急に言い出したので、三人の女たちは厨房で忙しそうにしていた。

 実地調査報告書と企画書の整理が完結し、皆やっと休暇をもらえることになった。退勤前に、蔵成信一、阿部貞寿、林信義、瓦歴斯、貝林囲は与一のオフィスで会話をしていた。与一は信義に技師昇格のために奥地の大学に入学し、大学の学歴と学位を取ってきたらどうかと提案する。

 信義はその晩、帰宅し母の満妹と話し合い、子供思いの満妹は、与一家を訪問し、息子を近場の学校に進学させることを説明し、息子を引き立たせ、支持してくれたことに感謝した。そして与一に米雅の父親西那瓦南族長に信義と米雅の仲人として縁談を持ち込んでほしいとお願いする。それを与一は喜んで承諾した。

 その後、満妹、信義そして与一は西那瓦南族長に正式な縁談を持ちかけた。が、族長が出した婿入りの条件を満妹は受け入れられなかった。与一の仲介人としての協力の詮があって、双方は共に喜び、好感を持ち、結果、米雅側が正式に信義側に嫁入りすることになった。

 十一月の中旬ある日の午前、製糖業者組織の遊説団が相賀庁長を訪問してきた。6名の社長遊説団に対し、相賀庁長はとても強い態度で断固として引かず、双方の激しい討論が展開され、荒井一行は門前払いを食らい、とても嶮しい顔つきで帰っていった。

 与一夫婦と信一、秀子は信義と米雅を連れて日本に帰国する準備をした。与一はまず信義と米雅を広井勇のところへ連れて行き、泊めさせてもらうように頼みに行き、ついでに信一が金沢で結婚式を開くことになり、自分と外代樹は急いで金沢に戻り式の手伝いをしに行くと報告した。広井勇は時が着たら必ず式に参加すると約束した。信一と秀子は先に米村家に戻り、吉太郎は与一らの姿が見えないとの問いかけに、秀子は彼らは今東京の先生のところにいて、部下の宿泊を頼みに行っていることを米村家の父親と母親に報告した。与一は信一の式服の袖あわせに付き添った後、一緒に写真館に向かい、二人の撮影スケジュールなどを予約しに行った。

 そのころ台湾では郭水生が陳来成をつれて満妹の庭園に行き、満妹と阿操の野菜収穫の手伝いをさせていた。この自家栽培のおかげで、孤児院の食料費を三分の一に抑えることができた。

相賀庁長のまったく動かない態度を目の当たりにした製糖会社の遊説団は目標を替え、今度は阿部貞寿を訪問した。彼らは貞寿にこのダム建設計画を立てた水利課の八田技師長と直接会談できる機会を作ってほしいと頼み込む。阿部は彼らをあまり気を落とさぬようにと慰めた。遊説団が阿部のもとを離れた後、阿部は彼らが置いていった果物のバスケットの下に札束が敷き詰めてあるのに気づく。

 そのころ与一と外代樹は信一と秀子を連れて兼六園で結婚の写真撮影を行っていた。満妹家では阿操が水生に手巻き寿司の作り方を教えていて、満妹は極力彼らの仲介を勤めようとしていた。

台北総督府民生長官のオフィス内では、下村宏がデスクの上に八田与一の「水力資源実地報告書」と「嘉南平原水利灌漑計画」を並べていた。その後下村と山形は嘉義庁と台南庁の送水路がつながる可能性について討論し、打狗港を「高雄」と命名することになる。

 阿部は正直に山形に荒井達が賄賂の手段を使ってきたことを報告し、それを聞いた山形は、阿部が勝手に荒井と与一との面談の機会作成を承諾した責任を追及しなかったが、心の中では荒井らの賄賂を使ってきたという事実とこれからの動きの発展から目を離すことができないことをはっきりと理解していた。

 八田一家はかまどを囲み座りながらおしゃべりをしていた。その時与一は前田藩主からの招待状を受け取ることになる。翌日前田正行は客間で与一と面会し、会話後、与一は秋美が藩主に与一を推薦し今回招待したということを知る。秋美と与一は一緒に兼六園へいき、昔話をしていた。秋美は与一に与一夫婦と信一夫婦を招いて、「三芳庵」でみんな一緒にご飯をするという誘いをした。与一と信一二組の夫婦は露天茶屋でお茶をしていた。秀子は河野坊ちゃまがまたまた妓女を抱きながら過ぎていく所を見つけた。その時与一は秋美がみんなを食事に招待していることを持ち出すと外代樹はあまり良く思わなかったが、その誘いを受けることにした。今回の宴会は秋美自身がもてなし、さらに黙って顔色を変えずに与一と外代樹二人の関係を観察していた。この時秋美は初めて与一に対する恋を諦めることにした。その時外代樹も秋美が本心から二人の祝福を願っていることを感じ取ったのだった。

 珍しくみな帰郷した、米村琴は自分の娘たちがいつもそばに居ないと寂しそうにため息をついたのに、外代樹は悲しみ、惜しく感じたが、ただ母を慰めることしかできなかった。母がもっと老人会の活動に積極的に参加してほしいと望み、父親は母親に彼らのことは心配しなくてもよいと伝えるのだった。

 

山形は原田と与一の二つの灌漑系統の提案について討論していた。原田は与一と直接意見を出し合いたいと言った。一月の中旬与一が台湾に戻ったころ、台北総督府土木課長官のオフィスで、山形が与一に討論の結果を報告した。彼らはもっといい考えがないか、限界がある水源の条件のもと、もっと多くの地域に灌漑できないかなどの要求を与一に話した。

 与一はデスク上の「嘉南平原の水道図」とにらみ合っていた。そこに阿部貞寿と蔵成信一がやってきて、課長らの要求をみなに話すと、皆は今晩の夕食時に集合し、食事を取りながら一緒に討論しようと決めた。

 阿部貞寿は八田家を訪問し、与一に「塩水港」の製糖会社の社長荒井が自分の宿舎に訪問してきて、与一と今回の水利開発の件ついて直接会談したいと表明してきたこと、それに荒井社長が賄賂を持ち出した事実をすべて打ち明けた。それを聞いた与一は荒井との面会を総督府の招待所で行うことに決めた。その理由は、山形課長が面会の状況をいち早く把握でき、対応できるようにするためだ。その晩夕食が終わると、与一は3つのコップを使い、蔵成信一と阿部貞寿に自分が構想した「三年輪作給水制」について説明し始めた。この「三年輪作給水制」はその名のとおり各地域3年に一度だけ農民に水を供給し、各地で輪作するといったとても平等でその時代の中で画期的なシステムであった。この制度は各地域期間ごとに違う作物を耕作し、(おもに米、サトウキビ、イモ類など)水の需要度を調節するといったものでもある。

 外代樹もここで製糖会社の業者が賄賂を使用していることを知ったので、とても心配で気が気でなかったが、与一は自らの身を清く保ち、絶対に欲に染まらないこと誓い、外代樹を安心させた。

 面会当日やはり荒井は与一との面会中に袖の下を使おうとし、金で計画中止の承諾を与一から受けようとした。が、与一は自分の立場を弁え、賄賂を受けとることは決してしなかった。荒井は与一の一本気で人にへつらわない態度を目の当たりにして、説得困難と判断し、諦めてしぶしぶ帰っていった。

 与一と信一、水生の三人は満妹の庭園で整地の手伝いをしているときに、二人は初めて水生と阿操の恋愛についてもうすぐで結ばれるということに知る。与一と信一は孤児院を視察後、再度孤児院の建設の企画を練ることにした。神父の喬治はそれに深く感激するのだった。

技監の原田貞介は土木課長山形要助に協力を求め、また民政長官下村宏の報告書再審査の結論をかねて、この計画の再度コスト軽減の要求を持ち出してきた。そこで与一は「三年輪作給水制」を提案した。山形はその制度に同意し、与一に原田のコスト軽減を基礎とした企画書の訂正案を求めた。

 一方製糖会社社長たちは直接下村宏を訪問して真情を吐露し、この計画を中止してほしいと頼み込んできたが、下村宏と山形要助は断固として立場を変えず、あの社長らに一瞬の隙を見せず、面会やクレームなどの機会を作らせなかった。また下村宏は製糖業者はこれしきで易々と手を引くわけがないことは百も承知であった。

 案の定、荒井を先頭とした製糖会社の社員たちは直接国会議員春山鳩夫を訪れ、彼に総督府を訪れてもらいこ計画中止の会談の間を取り持ってもらった、が明石元治総督は物分りのいい人で、そのような製糖業者側の不公平な見解の影響を受けることはなかった。そこで春山鳩夫は正式な公開会議の形をとって、業者側の意見や説明を尊重するようにとの提案をこの企画書を作った八田与一技師に伝えるように要求したのだった。

 明石総督は下村宏に与一の話を聞くことにし、与一は若かったころはとてもヤンチャな少年で、ほらを吹くのが大好きだったので、友達によく「ほら吹きの八田」と呼ばれていたことを知った。そして与一の桃園大圳建設の実績から与一は確かに優秀な技術者の才能を備えていると判断していた。だが、明石は現在の総督府には開発重点が高雄港の拡大工事のほうに向いているという真相があり、与一に計画には十分な財力支援が行えないということを下村に話した。この件を与一に報告することとなった下村は、それでも与一には辛抱強く、また自信を失ってほしくないと願うのであった。

 その夜、与一は客間で公開会議の資料文章を準備していたとき、一本の電話が与一にほっと息をつかせた。というのもあの製糖業者が公開会議を取り下げるという電話だったからだ。

その後、下村は民政長官事務室で山形要助と八田与一の二人と面会し、明石総督の経費不足問題の件で話をした。与一は先に嘉南平原の現地の農民を説得し、募金を集め、この開発計画を実行する提案をした。下村は与一の案に賛成し、地方に出向き、農民らから出資支援を預かり、嘉南平原の開発計画を策動する与一を全力でサポートすると言った。晩御飯の後、外代樹は与一が大量の資料に埋もれそれに悩んでいる様子を見て、何があっても与一を支持すると伝えた。

 八田与一は蔵成信一、阿部貞寿らを引き連れて嘉南庁で人を集め、説明会を開いた。そこで現地の民衆にこの前代未聞の水利灌漑計画を明確にし、説明を行った。最初は製糖会社の組員に質問と妨害を受けたが、努力の弁解の詮があって、やっと現地民衆を説得し、とても熱烈な同意を獲得することができた。

 西門町に戻った後、与一と信一は喬治神父に付き添い静修孤児院の工事視察に行った。

与一は現地募金と開発経費分けて計算し、初期の募金額が120万元にも上った。明石総督はそんな与一の現地の民衆に声をかけ、一丸となり募金活動をしている姿を見て、与一を台北に呼び戻して、国会議員を説得し、この計画を支持してもらい、内閣にこの計画の予算にもっと目を遣るように同意させてもらうことを許した。明石総督東京へ帰還し、恩師の寺内首相を訪問し、恩師のこの台湾建設計画に対する支持をいただけないかとお願いした。その結果寺内は支持するだけではなく、明石の総督としての仕事ぶりに関心を持った。それを聞いた明石は直ちに国会議員山県有朋の邸宅を訪問し支持を求め、また明石は山県に寺内首相に対する敵対心を捨て、嘉南平原の千万無量の農民たちを窮困の生活から救ってくれと頼み込んだ。この説得は夜中まで続き、トイレに行く休憩も惜しまず頼み続け、山県は明石のズボンが尿で濡れてしまっているのに気づき、感動を覚えた結果、ほかの国会議員たちにもこの計画に支持してもらうように説得することを約束した。

中川暁月はキャリーバッグを引いて、西門町の八田家の門の前に立っていた。家の中から笑い声が聞こえてきたとき、彼女は挨拶もしないでその場を去っていった。朝早く与一と信一は孤児院に設置してある電線回路で、暁月がこの孤児院に就任する新しい先生だということをはじめて知る。

二組の夫婦は待ちに待った念願の夫婦旅行のスタートを切り、台湾南部へ向かう列車に乗り込んだ。一行は鹿港九曲巷をぶらぶらとのんびり散歩し、現地の龍山寺を通りかかったとき、敬虔に参拝し、線香を上げた。その後、4人は阿里山森林鉄道に乗り込み、列車の中で鉄道に関連する歴史を語り合った。そして阿里山で桜観賞をし、延平郡王祠と台南の孔廟を見物して、最後に府城の食事を味わった。南台湾の美食美景は奥地からやってきた外代樹と秀子の心を大いにつかんだ。外代樹と秀子はいくつかの図書を持ち帰り瑪琪修道女に渡した。授業が終わった後、中川暁月は外代樹に偶然出会う。外代樹は暁月に暇があれば家に遊びに来てとおしゃべりでもと誘った。

その後、明石総督は電報にてすでに大半の国会議員の支持を獲得したとの報告が入った。工事開始を目前に、山形局長は与一に測量隊を率い南部へ下る準備をするようにと命令する。与一らがまた出張する間際、外代樹と秀子は夫に安全と健康管理に注意するようにと伝えた。

与一は測量隊、80名ほどの技師と助手員を引き連れて、嘉南平原に向かい、嘉南大圳の測量と設計図の検査などに取り組んだ。土木課嘉義出張所の会議室で、与一技師たちは会議を始めた。与一はここ一帯は流行病の発症エリアであるので、薬は忘れずに持っておくこと、それと毒蛇やスズメバチの攻撃には十分気をつけることなどの注意をみなに促した。

 その後、与一は台中、嘉義、台南等の三人の庁長を招き、会議を開いた。土地再度整備企画の操作技術問題と利用水の水道費の割り当てなどを討論する一方で、製糖会社がこのいい機会を使って、悪いうわさを持ち出し社会と治安に波瀾を巻き起こすのではという心配事も討論された。

 四月上旬のある日の夜、中川暁月と陳来成ら何人かの孤児たちは、満妹の庭園に来ていた。外代樹の熱情を間のあたりにした暁月は羨ましさと嫉妬さを抱く。

 嘉南平原のある場所で、八田与一と白木原、貝林の二人の技師が田んぼのあぜ道の上で輪になって座り、設計図上の灌漑水路について討論していた。与一はこの若い二人の技師たち熱い信頼を持ち、激励し、二人の自信を大いに持たせた。

 与一は外代樹宛てに手紙を書き、もし曽文渓の主流から官田ダムまで水を引くならば、烏山の尾根の下方に一つ引水トンネルを掘らなければならないと報告した。この計画中の官田ダムは、すでに与一が提案したセミ・ハイドロリックフィル工法(半水圧土堰工法)を使用し工事を行うことに決まっていた。この工法は世界でもとても珍しい工法で、コンクリートの使用量を減らして、砂、粘土、礫を多く用いて建設するといった工法であり、完成後の外観からはコンクリート使用の形跡がまったく見られない。与一は自信たっぷり様子で自慢げに、この工法の一番の魅力は、ダムの中の土砂は人口や機会で補うものではなく、完全に水力で補うものであり、大きな石や小石は次第に粘土になり、積もっていくことだと話した。こうした自然の影響力に反抗せず、逆に自然と調和するような建築物として、この構想は人間愛と自然愛が融合し、設計されたともいえる。

 幹部との討論と通して、与一はとても困難な烏山引水トンネルの工事を、一番信頼を持っている信一と湯本に託し、設計と建設を任せた。

 四月下旬のある日の午後、官佃渓上流で与一は熱中症で倒れてしまう。目が覚めた後、信一にこのことは絶対に外代樹に言ってはいけないと伝えた。しかし、西門町の外代樹はいやな予感がしたのか、次の日には与一を訪問した。

官佃渓上流附近、阿部貞寿の測量隊はちょうど上流の河岸を歩いていた。一つの樹林を抜けたとき、先頭を歩いていた阿部貞寿はスズメバチの群れを驚かしてしまい、数十匹のスズメバチに囲まれ攻撃を受けたが、幸い小原は機知に富んでいて、大きな問題はなかった。

 大正八年九月下旬のある日の午前、嘉義駅のホームの上、阿部、小田、湯本ら部下たちは八田与一と蔵成信一を見送りに来ていた。与一はこの膨大な工事予算企画案がやっと提出できると感慨にふけっていた。がその反面この企画案が果たして上に通るかどうかとても心配であった。幹部らは「人事を尽くして天命を待つ」と与一を励ました。

 与一が工事企画書を持ってくることを知っていた山形は特別に高雄港から事務所に戻ってきた。彼は与一に付き添い、明石総督を訪れた。明石はこの計画のために自ら内陸へ出かけ、より多くの国会議員を説得し、同意と支持を獲得してくると快く協力してくれた。みなの協力と努力の結果、八田与一の工事計画書にやっと総督府からの同意と許可が下りた。

 庁政府がに嘉南平原水利工事と土地新改革の進行に協力するようにと続けさまに公表したため、現地の地主の不満を抱かせてしまい、製糖業者の煽動の下、彼らは群れとなり、台南庁政府の正門を取り囲んだ。枝徳二庁長はすぐさま山形局長に報告し、至急団体を統率し、台南庁に向け出発させ、地主と製糖業者の討論と鎮圧を依頼した。出発間際、心配不安とが募る与一は、外代樹の一席の話を聞いたことによって急に元気になり、どのようにして目の前の苦難と状況に対応するか、地主たちを説得するかを十分考え準備した。出発前、与一は仔を孕んだ外代樹に付き添い、指南宮に参拝に向かった。純陽殿まえの線香を販売している老婆は外代樹は無水神の生まれ変わりだと言い、与一はそれを深く信じ、疑おうとはしなかった。

 与一と部下の解説と説明のもと、地主たちに嘉南水利工事が民衆の生活改善にどれほどの貢献と重要性があるのかやっと理解してもらうことに成功した。その局面を目の当たりにした荒井らはただ暗然に会場を去るのだった。

 五月中旬、八田与一はちょうど総督府土木課で小会議を主催していた時、家からの電話を受け、外代樹がお産間際だと知り、すぐさま病院に向かい、一番目の娘、正子の誕生を胸いっぱいの喜びで迎え入れた。

 八月三十日、嘉南平原の灌漑のため、総督土木課長は管理者として、また台南州長枝徳二と嘉義庁長の相賀照郷は副管理者として共同で「公共埤圳官田溪埤圳組合」(略称埤圳組合)を成立し、与一は総技師としてそれに参加した。台南庁の広場では「嘉南大圳暨烏山頭水庫動工破土」の式典が盛大に開かれた。同時にこれは与一が望んだ夢の飛躍的発展のスタートでもあった。

 与一は嘉義出張所進駐後、第一召集会議上で「箸の物語」を例としてみなに団結力はどんな困難をも乗り越えることができると話し、また海を越え、はるか遠くのアメリカに行き、彼らの水利工事を視察しそこから経験を得て、大型工事機械の使用方法を自分たちの工事に取り入れる計画も提案した。与一はこの計画を隔て、工事の効率向上や、コスト軽減、それと同時に技術者の訓練、機械、器具の使用方法や修理などの技術向上を目指していた。

 与一と信一は嘉義建設本部組合管理人枝徳二に説得し、総予算の範囲以内で、大型機械の購入を試みた。与一は先に組合と総督府からの工事補助金から大型機械の購入費用を出し、工事支援会社からの給付金を減価償却や機会修理費に当てる考えを思いついた。その後、与一は工事支援会社の代表らと会議を開いた。与一は工事時に大型機械使用の決定を報告した。最初、協力会社の代表たちは大型機械は高価で、修理費用も安くはなく、また現地点で、操作できる人材とそれを補修できる人材が不足している理由で、この方法に反対する面も見せたが、与一の観点を十分理解した後、代表らはみなこの新しい工事方法を試してみようと同意が下りた。

 与一は土木課長山形要助と民政長官の下村宏に報告し、部下たちを連れて、アメリカやカナダ等の国を訪問し、現地の工事を視察させ、そのついでに大型土木機械の購入をしたいという考えも伝えた。与一の周密さと全体的な考慮を施した計画は、山形と下村二人の長官の支持と首肯を獲得した。

 ある日の午前、八田与一は西門町で暁月に偶然出会う。外代樹は暁月の恋愛のためにいろいろと対象を物色したいと思っていたのに与一は同意した。さらに与一は仕事の進度が許す限り、阿操と郭水生の結婚式に参加することを承諾した。

  嘉義建設本部仮設事務所の会議室で、この工事計画の必要期間が長期になると見込んだ与一は、職員に何も心配せずに全力で工事に望めるようにと建設の職員宿舎に職員の家族も共に収容できるよう要求した。このような前代未聞の要求に設計師の丸尾は相当困ってしまったが、この突発性のある思想は山形と下村の支持を受けた。

 民政長官の下村がダムの設計図を見た後、このダムを「珊瑚」と命名した。下村は濁水渓上流の日月と共にみなに親しまれ、輝くようなダムになってほしいと心から望んだか、この工事計画の予定期間が長期になっるということから、下村はもしかするとこの先自分でダム完成の日が見れないのではと、とても悲しみ惜しんだ。

 久々に西門町の家に戻った与一は外代樹に職員宿舎の完成に伴い、自分たちは西門町から離れることになることを打ちあけ、外代樹はこの場所がとても捨てがたく思った。

 水生と阿操はついに悟りの果を得て、満妹の付き添いのもと、水生は阿操を妻として娶りにきた。外代樹は阿操の手をとり、水生に彼女のことを任せた。

 その時与一と部下たちはちょうど嘉義出張所の中で、宿舎地区の工事現場についてと工事の品質について討論していた。

 孤児院がクリスマスを迎えた時、皆は記念日を楽しく過ごすために忙しそうにしていた。阿操はもうすぐ母親になる姿を見て、秀子は一向に知らせがないことに外代樹はとても心配していた。

 信一が書斎で一杯やっている時、与一に秀子と離婚したい考えがあると言い出した。与一は驚きと怒りを隠せなく、信一に病院で検してくるように言った。翌日医者から信一はかなり珍しい無精子症であると申告され、信一はかなり落ち込んでしまった。

林信義と米雅は学校を無事卒業して家に帰ってきた。満妹は扉を開け二人に抱きつき、いくつか話をした後、林家三人は与一家を訪れて外代樹に時候の挨拶をした。その夜外代樹は正子と手をつなぎ、晃夫をおんぶして、庭の桜の木の下に立っていた。与一も家から出てきて、外代樹の真後ろに立ち、二人とも西門町から離れることに感傷的になっていた。引越しの日がついにやって来て、隣人や孤児院の孤児たちが見送りにとやって来て遊園地の行列のようになっていた。みなとても惜しい目で与一夫婦と信一夫婦の二組の夫婦を見送った。

外代樹は暁月に貞寿を紹介した。信義は技師資格もしっかりと獲得したので与一は瓦南頭目に二人の結婚を完成させるように頼んだ。与一はこの新婚二人に送るプレゼントも用意し、信義と米雅は原住民のみなに迎えられ、日月で結婚式を挙げた。

 大正十一年、工事開始から二年の歳月が過ぎたころ、与一家の次女綾子が誕生した。そのころ与一、信一、白木原民次の三人はアメリカへ赴き土木機械を購入し、カナダとメキシコのダムなどを視察していた。与一夫婦はこのように夫の出張が多く、離れ離れの日々を過ごしていた。

 ある日、台湾労働者の許阿火は仕事中熱中症にかかり体調不良を訴え、頭の蔡光明は彼に木陰で少し休憩するように伝え、そこでしばらく涼ませた。そこで日本籍の工事監督本田が何も知らずやって来て、阿火は木陰で仕事をサボっていると勘違いし、阿火の胸部腹部を蹴りつけた結果、阿火はその場で血を吐き倒れた。そのことが騒動の引鉄となってしまった、周りの台湾人労働者は見てもいられず、即座に本田を取り囲んだ。本田は持っていた棍棒で何人かを殴りつけ、労働者たちの不満は頂点に達し、本田を押さえつけ、出張所へ連れて行った。阿火も同僚に運ばれた。その後与一の引継ぎとして、湯本政夫の明快な判断と処理に、もともと憤慨していた労働者は肯定の拍手を送る。一方隣の林信義は湯本の応変能力にとても深い印象を残す。

 この事件からまもなく、現場で財布の窃盗事件が起こる。工事監督の吉永勝一は労働者の蔡木生が自分の財布を盗んだとした結果、二人はとても激しい口げんかに発達した。阿部貞寿は湯本政夫をお手本に、成熟で理性を保った態度で、この事件に対応した。かれの仲介の結果、騒動はやっと収まったのであった。

 林信義と米雅の間に女の子が生まれ、与一はアメリカから台湾へ戻った後、すぐさま外代樹と一緒に林信義夫婦を訪問し、祝いの言葉を送った。

台南州烏山頭出張所会議室で、与一は機械操作の手順をみなに説明し、従業員の身の安全を必ず確保するようにと伝えた。

大正十一年十二月六日の午後、烏山連峰引水トンネル工事時に、天然ガス層を掘り起こしてしまった結果、続けさまにガス爆発が起こった。この爆発で

烏山引水トンネルの現地には五十を超える負傷者と、死人で溢れていた。烏山頭一帯にとても悲惨で悲しい空気が漂っていた。八田与一は突然の工事事故の状況を把握し、宮田技師に調査報告書を書くように要求し、さらに調査結果をこの事件の善後策を担当する大倉組総裁大倉喜八郎に告知するように伝えた。出張所の幹部および外代樹が率いた十名の技師の妻たちは死者の家族の慰問と負傷者の手当てに当たった。大倉喜八郎は大倉土木組に防災訓練を行わせなかった結果、被害が拡大してしまったと八田与一に頭を下げた、が与一は決して大倉喜八郎に責任を問うことはしなかった、逆に与一は自ら山形局長に自分の不注意で事件が起こってしまったので、自分で責任を取ると話した。

 九日の午前、烏山トンネル入り口附近の高台で、八田与一は部下と大倉喜八郎、技師宮田貞一、工事監督見三宅陽介等を引き連れて、烏山連峰の調査に出かけた。一行烏山連峰トンネル入り口附近を調査し、調査記録の設計図となんら問題も見つからなかったため、大倉組総裁は本来の案を持続させることを決意し、事故調査鑑定報告が出てくるまで待ち、それから工事を再開することに決めた。

 田健次郎総督はこの意外な事件に相当な衝撃を受け、また総務長の官賀来佐賀太郎は至急山形局長を南下させ、この事件について調査をするように命令した。大倉総裁喜八郎、所長八田与一、工事監督蔵成信一、湯本技師らは各自の職務身分を賭けて責任をとる態度を表した。山形局長は工事の方策と工事の

経過を理解した後、行政責任はそれに等しい階級の役人が責任を取るべきだと説明し、八田与一に今回の事件に関する人事処分の名簿を必ず提出するようにと要求した。与一はこの事件の件で何日も眠れない夜を過ごしたが、婦人外代樹の慰めと激励があったおかげで、また立ち上がる元気をもらったのだった。

 烏山頭出張所での会議のとき、八田与一は自分は重大過失一つ、工事監督蔵成技師重大過失一つと過失二つ、技師監督湯本技師は重大過失二つ、工事主任林信義は重大過失二つと記録することを決議し、負傷者及び死者の家族たちに対する慰謝料は各部門の経費から提供することも決まった。蔵成信一と湯本政夫はこの事件に対して責任をとても深く感じていて、辞表と被害者の親族あての補助金を残し現場から去ってしまったが、運よく阿部がいち早くそれに気づき、与一に報告したため、与一は番仔田駅(現在の隆田駅)で、二人の優秀な幹部を引き止めることができた。

 泣きっ面に蜂というのは本当のことで、翌年九月に日本関東平野で大地震が発生し、伊豆大島を震源地とし、災害は関東地方全体に及んだ。総督府は罹災者の救済のため、半数の補助金を失ったため、嘉南大圳の工事に影響を与えた。このため八田与一は妻外代樹の「優秀者はもっと条件のよい仕事に就けるはず」という提案により、すべての職員の家計を守るため、半数の優秀な部下たちを解雇した、その中には八田与一がとても信頼を寄せていた林信義も含まれていた。与一は解雇した従業員のために四方を駆け巡り、友人を探して優秀な従業員たちを引き取ってもらい、仕事を継続けさせようと必死であった。その姿は従業員にこの上のない感動を覚えさせた。

 烏山頭工事宿舎の空き地を外代樹、秀子、王美足、張麗娥ら十数名の婦人たちが開墾し、野菜を栽培し、家畜を行い、一時解雇状況にある従業員の親族のために財源の基を作った。与一は心あせる工事が一時中止になり、長引いていたが、普段の仕事の際と変わった一面は決して見せず、市場で必死になって商売を続けた。しばらく時が過ぎたころ、与一は大圳の管理人枝徳二と共に総督府を訪問する計画を立て、土木局長山形に面会し、いつ工事は再開できるのかを問いに行こうとした。

 ある日阿部貞寿は宿舎で窃盗を試みた12歳の子供簡大春を捕まえ、ちょうど派出所に送り届けるときに、隣の信一がやって来て理由を聞いてみると、簡大春の父親簡吉は前大倉組の従業員で、引水トンネル工事の際爆発で負傷し、行動不便となりまともに家計を支えることができなくなっていた。さらにかれの祖父は脳卒中にかかり、ベッドの上に寝たっきりになってしまっているので生活がかなり厳しくなってしまったため、窃盗に手を差し伸べたという。それを知った与一は彼らの代わりに大倉組に特別手当の申請をだし、また何人かの技師は自らお金を出し合ってまで簡吉の援助をした。その後与一は簡吉を出張所に呼び、公文書の受付と発送の仕事を担当させ、家族の家計を心配なく維持させようとした。このように与一がいつも部下たちを自分の家族のように親しんでいて、他人事を自らのことの様に考え、助けるという広い心の持ち主だというのが見てわかるだろう。暇なときはいつも部下たちと一緒に野菜を栽培し、休憩を取り、役人風を吹かす行為はまったくとらず、部下たちからは深い支持を受けていた。

 彰化支庁引水工事地で、現地の保証人廖少康は、この工事はこの先一般民衆の生活改善のためにとても重要なものであると理解し、鋤をかついで鹿島組の工事に協力しに行こうと積極的に村民に呼びかけた。

 与一は大圳の管理人枝徳二を探し、民間募金活動の可能性について討論した。枝徳二は与一にいったん落ち着いたほうがいいと忠告し、総督府が完全に明確な返答ができなくならない限り、当然農民の負担の増加を避けなければいけないと伝えた。その後、二人は総督土木課長山形要助のもとを訪問し、工事費用補助金の支給について質問した。山形は自分は既に長官には予備金の支給を依頼する態度をとったが、もし本当に補助金が支給不可能になった場合は、嘉南大圳組合から建設公債の発行の許可をもらい、自分たちで募金を集めようと説明した。

 大正十三年十二月末、八田与一が待ちに待った良い知らせがやっと入ってきた。山形課長は電話で内田総督が既に予備金の手当てを承諾したので、工事は再開できると話した。それを聞いた与一は心の中の喜びを隠しきれず、すぐさま信一に前一時解雇した従業員たちに大圳工事が完全再開すると連絡をするように指示をした。西門町に戻っていた信義はこの知らせを受け取ったとき、興奮を隠せなく、我慢できない様子で米雅と一緒に南下し、仕事の持ち場に戻った。

 与一は関東平野大地震の影響が工事経費の凍結と工事期間の延長を招いたことを考慮し、これからの工事は一日三班制を採用し、日夜工事を急ぐ方針をとることにした。そのことで人事費用は倍増してしまうが、それより心配なのは工事期間がまたある状況で延期になり、総経費の制御が不能になってしまうことだった。与一はこの方法が最も良い解決方法だと確信していた。

与一は同時にできるだけ仕事の環境改善のため、もともと計画にあった学校、病院、デパートの建設のほかに、アーチェリー場、プール、卓球場、囲碁、将棋、麻雀場などの娯楽場も新設した。

工事がもともと予測していた期間超えていたのと、補助金の縮小で難航していたことで、与一は自ら土木課を訪れ、山形課長に工事期間の延長申請を提出し、総督府はすぐさま嘉南大圳工事期間を4年間に延長すると発表した。与一は部下を引き連れ、日夜問わず、全力で烏山頭の水利工事に投入した。外代樹はそんな与一が朝早く家を出て仕事に向かい、夜遅く帰ってくることに惜しみを感じ、労働時間を既に超過している夫に対し、同時になるべく多くの時間を、子供の成長に費やしてほしいと願う。与一は健康管理に注意することと労働分配の面で少し調節をすることを承諾した。

 九年もの工の事歳月を隔て、桃園大圳は大正十四年五月二十六日に完成し使用されることになり、与一と何名かの幹部は完成式典に招待された。与一は部下たちが退勤した後、揉め事禁止前提で、彼らにレジャータイムを取ることを許可した。その日の夜何人かの労働者は木の下で、賭博をやり始めた。その音を耳にした派出所の日本籍巡査、松本大雄と、台湾籍の巡査助手、游力達はその労働者たちを逮捕した。与一は自分が部下たちに退勤後、息抜きをさせた結果、違法な行為を起こし、逮捕されたということを知り、自ら派出所に向かい説明をした。さらに無違法で合理的な条件のもと、むやみに労働者を取り締まることは許さないと指示し、労働者たちを連れ戻した。

 まもなく、台湾国籍の労働者と日本国籍の労働者は芸妓館で各自酒を飲み、楽しくやっていた。ところが些細なことでお互いが挑発するようになり、次第殴り合いに展開していった。このお騒がせ者に二人は派出所の牢屋に入れさせられた。派出所側は前の賭博事件もあったので、特別に注意を払っていた結果、この事件に出くわした、その後、与一に電話でこのことを報告すると、与一は激怒し、その二人を原則に伴いそそのまま留置し、もし自分の幹部ならそこで厳重な処罰を受けさせるように派出所側に伝えた。所長はその時与一はとても規則を尊重していて、賞罰をはっきりと見分けることができる人だと知った。

 与一の宿舎の庭園で、従業員のみなは簡吉と大春親子が公演している人形劇を楽しんでいた。この日の夜勤は政夫で、信一はいくつかの食べ物を彼に差し入れ、彼の結婚のことを心配していた。政夫はそのことにとても感謝していた。

真夜中、与一は熟睡し鼾をかいているころ、外代樹は座り昔与一がくれた彫刻を眺めながら昔のことを思い出していた。ふるさとの家族、与一と行った二日間「兼六園」旅行などの思い出を回想していたのだった。

 この日、技師のみなは「烏山頭ダム立体模型図」を囲んで討論していた。与一が提案した大自然の流れを余水路とする設計とセミ・ハイドロリックフィル工法はみなが敬服するようなすばらしい方法であった。幹部たちは大自然を大いに利用するといった設計のインスピレーションは、子供の無邪気な遊び心から得られたということはみなも驚きであった。与一のこの大型ダム建設の青写真に対し、山形はアメリカの水利署の専門家ジャスティン(Justin)を台湾に招きダム建設工事の設計の視察を依頼することにしていた。

 外代樹が与一に三番目の兄智証と米村家の父親と母親が台湾へやって来ると言う知らせを告げた。与一は工事状況によっては彼らとは面会できないかもしれないととても心配であった。その後信一に基隆港に行って彼らを迎えに行ってくるように伝えた。与一の兄と米村家の親夫婦が基隆港に到着する日、信一は迎えに行った。八田与一は部下を引き連れ濁水渓の取水口の水門の調査に出かけていた。与一は米村家の吉太郎琴と、智証を連れて、工事現場を参観した。自ら与一が今ちょうどこのような壮大な工事を行っているところを目の当たりにして、米村夫妻は与一と外代樹が故郷を離れて、こんなにも仕事が大変なのに心を打たれるが、彼らは与一の努力と成功を確信していた。

 

ジャスティンは与一のダム建設の主題である「セミ・ハイドリックフィル工法」は現代主流の工法ではなく、同時に、既に運水路の水門の設計が済んでいる前提のもと、堤防の端にまた新たに余水路を切り開くやり方は前代未聞で、さらに堤防の設計に鉄筋コンクリートを用いないなど、強い疑問と不安を抱いた。与一はこの問題一つ一つに詳しい解説を施したが、ジャスティンの疑問と不安は完全には取り消すことができなかった。山形は与一に実際の実験データをもとにした報告書を提出し、ジャスティンの調査分析の参考にするように要求した。

大正十四年九月中旬のある日に起こった大地震は烏山頭の工事現場を震動させ、その時、オフィスにいた与一はすぐさま医療道具を準備させ、医療班に現場へ駆けつけるように命令し、現場状況の確認を急がせた。そのころ蔵成信一はトンネルの土砂崩れの危険性をも惜しまず部下を引き連れてトンネルに入っていき救助作業に取りかかった。与一は林信義もトンネルの中に閉じ込められていると知って、心配で居ても立ってもいられなかった。彼は医療班を二組に分け、一つは烏山トンネル現場の救援治療、もう一つはダム排水トンネルの救援治療に向かわせた。与一本人もヘルメットを着け、トンネルに入って行き、信一と合流して、両足負傷の信義及び他の従業員の救出を手伝った。信義は病院に運び込まれた後、診療を受け、医師からは命には別状はないが、長期間のリハビリを受けなければ完治は難しいと告げられた。

 土木局長は自らから須山出張所に赴き、大地震の損害報告を受けた。信一の報告から、今回採用した国外最新式の防災壁システムが、この地震損害を最大限に押さえ、従業員も大惨事を逃れることができ、しかもたったの一ヶ月で修復作業は終了する予定で、またトンネル工事が再開できる状況にあると知った山形は喜んで安心し、与一に遠慮がちな態度で、また相当な評価を与えた。

 外代樹は与一に前回の天然ガス爆発事件に引き続き、今回の大地震と不幸続きだったので、お寺に行き、参拝して、神のご加護を受けてくるようにと提案した。与一と信一は簡吉の引率のもと、鹿耳門天后宮に参拝に向かった。

 昭和元年(1926年)三月上旬、ダム排水トンネルの工事が完工し、嘉南大圳水利工事の中心である烏山引水トンネルと大型ダムのうち、トンネル工事はもう既に半分は完了していて、ダムの建設はもうすぐ開始できる段階にあるという。この進度は明らかに工事に関係するすべての従業者たちに激励とやる気を与えていた。烏山頭出張所会議室で、与一はこれから始まるダム建設工事の仕事の分担をし、みんなに前回の工事安全の教訓を懇切に促した。

同じく三月上旬、烏山頭ダムの建設がスタートし、工事現場では簡単な工事開始の式典が催された。山形課長は枝徳二に前回の完工とこの後残りの工事完工を願い、祝いの言葉を入れた。夜与一は夜宿舎に戻り、外代樹に昼間の式典のことについて話し、二人は時間があっという間に過ぎてしまって、幸いなことに、すべてのことがどんどんうまくいくことに感嘆した。

四月与一と工務係長川山丈澄は共に烏山頭ダム工事の視察して回った。その後、阿部が川山が提案した蒸気圧ロードローラーを使用する代わりに牛に石のローラーを引かせる方法を採用した結果、効率は著しく向上した。

四月の下旬外代樹と与一は電報で母がこの世を去ったこと知り、二人は五月の上旬に日本に戻り、親の喪に駆けつけた。与一の二番目の兄又五郎の口から三番目の兄智証は癌を患ったこと、それに余命も後わずかだと知り、かなり落ち込んでいた。しかし智証は死の直前でも淡々としていて、逆に与一に安心しろと慰めかけた。

台湾に戻って間もなく与一は智証の死を知らされ、続けさまに親族をなくすという衝撃が大きすぎて、与一は悲しみと苦しみに打ちひしがれた。が、外代樹の慰めのおかげで、与一はゆっくりとだがまた立ち上がることができた。

 昭和三年(1928年)六月十七日、烏山連峰下方の三キロメートルにも及ぶ烏山引水トンネルが開通した。与一はこの多数の犠牲者を出したトンネルがついに開通したと聞いて、歓喜した後、特別に七月一日を選んで開通儀式を行った。六台のダム建設に使用している大型Lift Pump機を備え付けさせ、ポンプを空に向け、水を放水し、巨大な水のアーチと作らせ、この開通礼典を祝った。

 昭和四年(1929年)冬季のある日、大型ダム建設はかなり順調であり、与一と外代樹は信一家と信義家を連れて、関子嶺の温泉旅行に行き、得がたい休暇を楽しんだのだった。

 昭和五年(1930年)二月のある夜、暁月が訪問してきた。彼女との会話で与一と外代樹は暁月は現在烏山頭小学校で就任していることを知った。与一と外代樹は彼女にいつでも遊びに来るようにと伝えた。

同じ年の五月十日、この日は烏山派出所前の広場で烏山頭ダムの完工式典が催されていた。日本関係者約二千名、台湾関係者約六百名、会場はいろいろな食事や屋台、催しで盛大に賑わっていた。

 与一はこの十年間かけてやっと空前の嘉南大圳水利工事を完工させたが、それでは満足はしていなかった。彼はもうすでに次のステップを踏むべく、いち早く資金問題を解決し、曽文渓上流にもう一つダムを建設することを望んでいた。これは烏山頭ダムの寿命を引き伸ばすためだけではなく、嘉南地区の水不足問題の更なる徹底解決にもなり、もし成功すれば嘉南地区で米の三毛作が期待できるという。

 与一は信義を連れて曽文渓下流の海との合流地点、北門庄に行き、数年前、実地調査でここを訪れたとき、飲み水問題で討論したあの農家を再度訪問し、自ら溝渠完工の検査を行ったあと、農民の生活に改善はあったかどうかを訊ねた。農民の阿郎と月里夫婦はこのことに感激を隠せなかったと言う。

 昭和六年、八田与一は一家で台北市幸町の総督府の宿舎に移り住んだ。その後林信義と郭水生夫婦ら友人たちを訪問した。同じ年十一月上旬、「台湾水利協会」が成立され、与一は協会の設立の仕事に参加した。また彼はこの協会の幹事を任され、与一の永眠までの間、計十二年間この仕事に就任し続けた。

 昭和二十年九月一日、与一がこの世を去ってからちょうど三周年がたったころ、外代樹は次男の泰雄を連れて、信一夫婦、信義夫婦、赤夫婦、宮地技師長らと共に与一の墓を訪れ、供養した。同年八月十六日、日本は敗戦し、総督安藤利吉は台湾と澎湖列島を放棄することに決定した。

外代樹はたとへ娘の説得があろうと、この与一との思い出が大いに残る島を離れるということを依然として拒絶した。与一の次男八田泰雄は林信義に母親は台湾から離れるのを断固として断っていることを告げ、信義は会議の中で嘉南大圳組合理事の袁国欽、理事の林蘭芽、ダム管理所長赤崛信一、宮地末彦技師長らにこのことを話し、民衆は与一の功績をとても偉大なものとしているし、当然与一一家を烏山頭に居住し続けることは可能であるとして、組合名義で政府側に請願書を提出することにした。

外代樹の憂い悲しみ、気が沈んでいる姿は子供たちに心配で気がきかなくさせていた。

昭和二十年九月一日、外代樹は遺書だけを残し、烏山頭ダムの出水口附近で自らの身を投げ出し、自殺した。その日はちょうど台風が上陸していて、嘉南地区には暴風と大雨にみまわれていた。まるで何かを述べているかのように。。。

中川暁月は与一と外代樹の墓の前で弔いをしていた。その姿を阿部貞寿遠くから黙々と眺めているのだった。

 時間は現代に戻り、八田与一と米村外代樹二人を演じ、また同じく八田与一当時の部下で「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の事務局長を務めます中川外司(なかがわとし)様に烏山頭ダムを散策してもらい、八田与一の生涯についてお話をいただきたいと思っています。



掌鏡人專業影視製作公司為台灣地區最專業的電影電視製作工作團隊,團隊成員來自大學中文系所、大傳系、影劇系、文創所,經過二至三年養成教育,開發包括幻、 科幻、動畫、歷史、時代、青春勵志、浪漫偶像等各類型題材電影和電視節目,且可按照按客戶需求,提供量身訂作的劇本,以及進行「置入性行銷」。本公司發片 以商業 性(票房或收視率)為主要考量,也可依照客戶需求,規劃具有高度藝術性,適合參加國內電影獎、電視節目獎、海外電影展的劇本,歡迎深具投資眼光的企業主、 電視台、影視傳播製片公司、製作人(電影製片)洽詢合作辦法。 掌鏡人專業影視製作公司聯絡人 台灣文學碩士專業劇作家陳去非886_0917835792 03_5638911 yah520610@yahoo.com.tw

( 創作連載小說 )
回應 推薦文章 列印 加入我的文摘
上一篇 回創作列表 下一篇

引用
引用網址:https://classic-blog.udn.com/article/trackback.jsp?uid=rehtoric520610&aid=23054716