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さようなら、黄昭堂さん
2011/11/18 14:14:59瀏覽737|回應0|推薦1

台湾の黄昭堂さんが亡くなった。

台湾独立建国連盟の主席で、戦後の台湾と日本との関係を象徴する一人だった。大動脈乖離のため、台北市内の病院で息を引き取った。79歳だった。

1958年に日本に渡って東大で博士号を取得した。蒋介石・国民党政権の強権政治に反発して日本での独立運動に参加した。それで政治犯とされて、1992年まで台湾に戻ることができなかった。日本では、いくつかの大学で教えていたので、授業を受けたことがある人も少なくないだろう。
台湾帰国後は独立運動の指導者として大活躍し、李登輝元総統とは非常に親しく、陳水扁前総統のときも国策顧問を務めて、台湾の独立派と民進党をつなぐパイプ役でもあった。

黄さんのすごさは、こうした経歴だけでは書き尽くせないその人柄にある。
台湾の激しい政治運動のなかではどうしても他人の恨みを買いやすくて、誰からも嫌われていない人は本当に数少ない。黄さんはその一人で、黄さんを悪く言う人に台湾でも日本でも会ったことがない。
きっと多くの方が感じていることだろうが、他者に対して限りない包容力のある人だった。

黄さんは私が2007年に台北特派員になるちょっと前に知り合い、特派員になった後は毎月のように会ってきた。会いに行くと、100キロを超えるような巨体を揺らして笑顔で「よくきたな」と歓迎してくれて、台湾政治の裏話や日本での独立運動の昔話を聞かせてくださった。

台湾を2010年に離れて1年ほどお会いする機会がなかったが、
知り合いを通じて、「今度台湾に来くるなら必ず会いに来なさい」と言っていただいた。
それで今年9月、台湾に取材で行ったときに林森北路の「梅子餐廳」で夕食をご一緒した。
いつもウイスキーを持ち込んで、ぐいぐい飲む酒豪だったが、
このときは「ちょっと医者から止められているんだ。最近体が調子がよくない」と言って酒を控えていたので、少し心配していたのだが・・・
このとき私が最近出した著書の「ふたつの故宮博物院」を黄さんにお渡しした。
今度お会いするときには感想を聞かせて下さいとお願いしていたが、かなわなかった。

昨夜、書棚にあった黄さんの名著「台湾総督府」を手に取ったら、涙が止まらなくなった。
もうお会いしたかった。さようなら、黄さん。

野嶋 剛

 

(中譯)

黃昭堂主席過世了。


黃主席身為台灣獨立建國聯盟主席,象徵著戰後台日關係的重要人物,日前因手術中發生的大動脈剝離撒手人寰,享年79歲。


黃主席於1958年渡日,後於東京大學攻讀博士學位。因反對蔣介石的國民黨政權開始從事台灣獨立運動,也因此被當時政權視為政治犯,直到1992年之後才得以再次踏上台灣的土地。旅日期間曾任教於多所大學,育才多數。
返台之後以獨立運動指導者的角色活躍於政界,與前總統李登輝先生交情匪淺,在陳水扁政權時也擔任國策顧問要職,可說是台獨派和民進黨間的重要聯繫。


但黃主席了最不起的是單由其經歷無法傳達的人品。
在台灣激進的政治活動中,樹敵和其容易,能八面玲瓏圓融處世的人物少之又少,但不論是在台灣還是日本,幾乎沒見過對黃主席抱持壞評價的人。
也許是因為大家都感受到了他的那份包容力吧。


2007年在我赴任台北特派員之前與黃主席初識,任職特派員期間大概每個月會見一次面。每次見面時,福態的黃主席總是親切的笑著歡迎,閒話家常地告訴我台灣政治的內幕和當年在日本進行獨立運動的老故事。


自從2010年離開台灣之後,差不多有一年的時間沒有見到面。黃主席特地透過朋友轉告我:「下次訪台時務必找時間聚聚。」
所以今年九月到台灣採訪時一起在林森北路的「梅子餐廳」一同晚餐。總是豪邁的喝著威士忌黃主席當時卻反常的節制,說道:「最近身體不適,醫生勸我不要貪杯。」讓我有些擔心。那時我將最近新出版的「兩個故宮博物院」送給黃主席,希望日後碰面時能請教他感想,
沒想到事到如今無法實現了。


昨晚從書架上拿出了黃主席的名著「台灣總督府」一書,忽感悲傷淚流不止。


多想再見一面,
但是永別了,黃昭堂主席。

野島 剛

( 休閒生活旅人手札 )
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引用
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