字體:小 中 大 | |
|
|
2011/09/21 23:46:10瀏覽5564|回應2|推薦43 | |
男兒立志出郷關─日本釋月性(1817-1858)的〈將東遊題壁〉詩 男兒立志出郷關,學若無成不復還。 埋骨何期墳墓地,人間到處有靑山。 本詩似乎頗具魅力,深受大眾喜愛。筆者因嘗聽某無線電台的一個廣播節目用閩南語吟唱,做為節目開頭,遂以為是臺灣早期詩人作品。至今始知為十九世紀日本江戶末期僧人月性所作,流傳甚廣,誠難得之佳構: 一、本詩共四句,句句淺白如話,頗貼近日常的、具體的人生。 二、第二句兩度運用否定字─「無」與「不」,強烈表達其不滿現實,要求革新的情緒。 三、第三句使用「埋骨」、「墳墓」等驚悚字眼,足以聳動人心,使頑廉懦立。 四、末句的「青山」可說象徵著作者未來安息之地,也是人生攀登的頂峰。「青」字的色調,代表自然、和平,使情緒由激烈回歸平靜,這展現了詩歌發揮抒情作用的過程。 五、本詩用「上平聲十五刪」做韻腳,聲調響亮,非靡靡之音可比。 六、全詩二十八字中,入聲字有七個(立、出、學、若、不、復、骨等),佔了四分之一,加強旋律的抑揚頓挫;深具搖蕩性情、淘洗渣滓之效。 【男兒立志出鄉關─劉福助】: http://www.youtube.com/watch?v=H6KbsBjnLD8 ◎參考資料◎ (一)日文版《維基百科》: (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7-最終更新 2010年8月22日) 月性(げっしょう、文化14年9月27日(1817年11月6日) - 安政5年5月11日(1858年6月21日))は、幕末期の尊皇攘夷派の僧。周防国大島郡遠崎村(現在の山口県柳井市遠崎)、妙円寺(本願寺派)の住職。諱は実相。字は知円。号は清狂・烟渓・梧堂。鹿児島湾で西郷隆盛と共に入水した僧月照とは別人。 1.経歴: 15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田弾正・福原越後・浦靭負(うらゆきえ)などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。 安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男子立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。 安政5年(1858年)5月、42歳で病没した。 2.文献等: 著書に「仏法護国論」等(「維新の先覚月性の研究」(月性顕彰会編、マツノ書店、1979年)に詳しい。) 3.伝記に『月性 人間到る処青山有り』(海原徹、ミネルヴァ日本評伝選、ミネルヴァ書房 2005年) 4.関連施設: 月性展示館(山口県柳井市遠崎) (二)日本山形縣「月性遺品展示館」網頁: (http://www.y-shoko.com/obc/tenjikan.html) 文化14年(1817)妙円寺で生まれた僧月性は、尊皇攘夷論者として有名。展示館はこの寺の境内にあり、維新100年記念事業として昭和45年に完成しました。月性の書簡や遺品、書画類など600点を展示しています。境内には月性が郷里を出る際に詠んだ「男児志を立て・・」の漢詩が刻まれた男子立志詩碑や、門弟たちより復元建立された清狂草堂などもあります。 (三) 碇豊長《詩詞世界‧日本漢詩選》: (http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/jpn30.htm) ※釋月性:文化十四年(1817年)~安政三年(1856年)。江戸末期の詩僧。周防国の人。勤王の志を持っていた。釈は、釈門の意。 ※將東遊題壁:東の方に旅立とうとして、壁に詩を書いた。 ・東遊:月性が大阪の篠崎小竹のもとへ旅立とうとした時になる。 *この作品は、或いは「男兒立志出郷關,學若無成死不還。埋骨何期(豈惟)墳墓地,人間到處有靑山。」ともする。毛沢東が十七歳の時の作に『留呈父親』「孩兒立志出郷關,學不成名誓不還;埋骨何須桑梓地,人間無處不靑山。」と、この作品に基づいて、作っている。尤も、彼はこれを西郷隆盛のものと思っていたようだ。この混乱は、西郷隆盛が共に活動した友人の詩を揮毫して留めて置いたことによる、とお教えいただいた。十数年後、雲井龍雄は『題客舍壁』「欲成斯志豈思躬,埋骨靑山碧海中。醉撫寶刀還冷笑,決然躍馬向關東。」と作っている。 |
|
( 創作|文學賞析 ) |