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第50番札所 東山瑠璃光院 繁多寺
2013/11/21 16:06:02瀏覽57|回應0|推薦1

50番札所 東山瑠璃光院 繁多寺(ひがしやま はんたじ)

薬師如来 / 真言宗豊山派 / 行基菩薩

オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ

唱え奉る 四国霊場 第50番 東山 繁多寺 の御詠歌に

よろずこそ繁多なりとも怠らず 諸病なかれと望み祈れよ

(よろずこそ はんたなりとも おこたらず しょびょうなかれと のぞみいのれよ)

790-0912愛媛県松山市畑寺町32089-975-0910

前札所:第49番札所 浄土寺1.6km/次札所:第51番札所 石手寺2.5km徒歩:

浄土寺八幡宮ファミリー温泉浄水場繁多寺

浄土寺から徒歩5分、伊予鉄バス松山駅前:ファミリー温泉畑寺(4分)、下車後徒歩(600m

伊予鉄道久米駅下車。津田団地行きバス(繁多寺口下車)。徒歩10分。

宿泊:なし

繁多寺の歴史・由来

寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。
縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位74958)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(81024)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。
その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位127487)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(123989)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。

また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位13821412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。
さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。

繁多寺の見どころ

一遍上人

伊予の名門、河野通広の次男として生まれ、
10
歳のとき出家、のち全国を行脚し
「遊行上人」「捨聖」と呼ばれた。

歓喜天像

本堂左手の聖天堂に安置。祈れば富貴を与え、
厄除け、夫婦和合、商売繁盛などのご利益があるという。

接待一万人の石柱

山門前にある寺名の石柱裏側。
10,000
人のお遍路接待を成就した記念碑。

( 興趣嗜好其他 )
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引用
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