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第62番札所 天養山 観音院 宝寿寺 てんようざん かんのんいん ほうじゅじ
2013/11/21 17:55:46瀏覽96|回應0|推薦0

第62番札所 天養山 観音院 宝寿寺 (てんようざん かんのんいん ほうじゅじ

十一面観世音菩薩 / 高野山真言宗 / 弘法大師

オンマカ キャロニキャ ソワカ

五月雨のあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かわ(さみだれの あとにいでたる たまのいは しらつぼなるや いちのみやかわ)

799-1101愛媛県西条市小松町新屋敷甲4280898-72-2210

前札所:第61番札所 香園寺1.5km/次札所:第63番札所 吉祥寺1.5km

徒歩:香園寺宝寿寺

香園寺から徒歩12分、せとうちバス新居浜駅・中萩経由川之江行:小松営業所小松(1分)、下車後徒歩(50m

JR予讃線伊予小松駅下車。徒歩2分。

宿泊: なし

宝寿寺の歴史・由来

JR伊予小松駅から西へ歩いて1分、100m近い。境内は、しっとりとした日本庭園の風情が満ちており、遍路の気分を和ませてくれる。往時は伊予三島水軍の菩提寺として、また、大山祇神社の別当寺として栄えていたのが宝寿寺の沿革である。
縁起によると、天平のころ聖武天皇(在位72449)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師(?〜744四)が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられる。

弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(80610)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいた。大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。ただ、中山川のたび重なる洪水の被害を受け、天養2年(1145)に堂宇を再建し、山号も「天養山」と改めている。
以後、大山祇神社の別当寺として栄えたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐の戦禍で壊滅し、さらに明治維新の廃仏毀釈令に遭い、明治10年に再建されている。

宝寿寺の見どころ

予讃本線

大正10年に開通、境内の中を汽車が走るので西へ100mほど移転。
また、国道11号線の開通でも境内が削られた。

再興の祖

寛永13年(1636)四国遍路の行者、宥伝上人によって現在地に移転、再興された。

道標

山門を入った左手、蘇鉄の前に真念が建てたもの。
また、中務茂兵衛が254度目の遍路をした道標も近くに。

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引用
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