事実としての不平士族の反乱は、現代日本人が理解する「伝統」や「名誉」を守るためのものではなかった。それは何より現実生活上の必要に迫られてのことだった。
髷を落とすことや刀を捨てることは確かに士族の名誉を傷つけたが、それ以上に徴兵令による特権身分(士農工商)の解体や家禄の停止こそが彼らを反乱に導いた真因だった。一部を除き、反乱は旧藩単位での決起だったし、西南戦争の薩摩軍も身分への固執や新政府内での人事への不満(藩閥闘争)がその挙兵の「気分」(「理由」ははっきりしない)であり、少なくとも日本人の伝統を守るための戦いではなかった。
トム・クルーズ演じる主人公の日本到着シーンでの巨大すぎる富士山、京都・知恩院で撮影された石段を登った奥にある神秘的な皇居とそこに住まう天皇という設定、初めての戦いでの敗軍の将の切腹と介錯、村祭りでの忍者部隊の急襲など、すべて日本趣味であることは言うまでもない。武士村落での生活にも無理がある。千年の歴史を超える寺、そこで「般若心経」を読経する武士の頭領(奥州藤原氏、あるいは鎌倉武士がモデルか)。突出した存在感の刀鍛冶屋。のべつ幕無しに武術訓練に精を出す侍たち(一方の生活は、道でひれ伏す農民たちが支えてくれているようだ)。それに、兜・鎧の出立ちや戦闘の様子はどう見ても戦国時代のものだ(騎馬隊は桶狭間のイメージ)。その他の「日本文化」をとってもいくつもの時代が錯綜・凝縮され、人々の生活に「ジャパン」が詰め込まれ過ぎていて、かえって不自然だ。
この映画は、アメリカ人がイメージし理想化した最後の「サムライ」(実際の「侍」ではない)を描き出したフィクションなのである。無論、この村は日本のどこにもなかった「ネバーランド」(=ユートピア)である。主人公が体験する村での生活は、ちょうど小泉八雲の日本名を持つラフカディオ・ハーンが思い込んだ欧米人の「日本」である。早い話、おとぎ話なのである。この映画の中に、日本人の現実にあった日本を観ようとするから、錯覚が起きたのだ。私たちもアメリカ映画を観てはいつも錯覚している。しかし、自画像として錯覚することはそれとは違うことだし、危険でさえある。当の日本人が本当の日本を誤解し、かえってそこから遠ざかるからだ。
|