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二二八事件 知られざる「三月大虐殺」
2026/07/21 06:09:46瀏覽43|回應0|推薦0

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次に私は、二二八事件について書かなければならない。

二二八事件は、「三月大虐殺」と言い換えることもできる、台湾史上、最も凄惨な事件であった。政府の軍隊によって三万人の有望な人材を殺されたことは、台湾人にとって、今も忘れることのできない深い傷を残している。

このときの虐殺で、私の最愛の兄、育霖(いくりん)も犠牲となった。兄は私にとって、かけがえのない存在であったばかりでなく、台湾にとっても有用な人材であった。何より、兄自身が台湾のために働きたいという情熱を持っていた。かれは終戦後、そのまま京都地検に残るよう慰留されたが、母国の建設に役立ちたいと帰ってきたのだ。帰国してから、まだ一年しかたっていなかった。まだ二十九歳の若さだった。

兄のほかにも数多くの無実の知識人が、国民党のターゲットになり、残虐な手口で殺された。そして、生き残った者たちも、その後に続く白色テロに怯えながら生きることになった。

しかし、これほどまでの大事件でありながら、日本をはじめ諸外国の人で、二二八事件のことを知る人はほとんどいない。国民党政権が、この事件の真相が外部に漏れないよう、報道の規制を続けてきたからである。台湾人同士、二二八事件のことを語りあうことはタブーであった。兄の息子たちに対する思想調査はしつこく続けられたので、嫂(あねよめ)は下の息子が成人するまで二二八事件のことを話さなかった。二二八事件が語られるようになったのは、一九八〇年代後半のことである。

しかし、台湾人はこの事件を決して忘れることはない。

発端はヤミ煙草の摘発

いかなる歴史上の大事件も、そのきっかけは些細なことである。

一九四七年(昭和二十二)二月二十七日の夜、台北市大稲埕の盛り場で煙草を売っていた林江邁(りん・こうまい)という女性が、専売局のヤミ煙草の摘発にひっかかった。煙草を取り上げられまいと抵抗する彼女を警官が銃で殴りつけたため、野次馬がどんどん集まってきた。専売局の隊員は威嚇射撃をしながら、ジープに乗って逃走したが、そのとき野次馬の一人が撃ち殺されてしまったのである。

あたりは大騒ぎになった。群集は犯人の逮捕を要求しようと、大挙して警察局に押しかけた。日ごろから、政府のやり口に憤懣を抱えていた台湾人の気持ちが、このとき、爆発したのである。

翌日の日付で、兄が寄こした長い手紙にはおおよそ次のようなことが書かれていた。

「昨晩、大稲埕の『山水亭』で、陳逸松氏(弁護士。日本時代の台北市民選議員)や王井泉氏(『山水亭』の主人で、演劇界の重鎮)らと飲んでいるところへ、例のタバコ売りの女性の傷害事件が起こった。みんなで飛び出してデモ騒ぎを見物したが、街中の爆発的なエネルギーを見るに、必ずや大きな政治闘争に発展するであろう。われわれの時代は意外にも早く近づいてきたようだ。お互いに元気で頑張ろう。私は騒動にはまったくタッチしていないから安心するように」

翌二十八日も、多数 of 市民が集まって、デモ行進をしながら、専売局に押しかけた。犯人の処罰を求めたが果たせず、局内の摘発煙草や備品などを戸外に出して焼き払った。デモ隊は専売局の後、陳儀に陳情しようと、午後一時ごろ、行政長官公署に向かった。ところが、武器を持たない一般市民のデモ隊に対して、長官公署の警備兵は、いきなり機関銃による一斉掃射を加えたのである。デモ隊は逃げ惑ったが、多数の死傷者を出した。

しかし、これでひるむどころか、人々の憤激は頂点に達し、中国人と見れば殴りかかり、中国人の店舗を焼き討ちした。中国人が所有しているものは、かれらが台湾人から搾取したものばかりであった。

しかし、人々はそれらの品物を自分のものにしようとはしなかった。ある店の前で積み上げた品物の一つをポケットに入れようとした人が、他の人に咎められ、すぐに返したという話はよく知られている。日本時代に叩き込まれた道徳教育が身に染みついているのだ。中国人はそれを、日本奴隷教育だと嗤ったが、それはもう台湾人の特質になっていた。

午後二時ごろ、台北市放送局を占拠した人たちは、ラジオを通じて、台北市の状況を報告し、他の地域でもこれに呼応して立ち上がり、台湾から「ブタ(中国人を指す)」どもを追い出そうと呼びかけた。

午後三時、陳儀は戒厳令を布いた。軍隊や警察官が車に乗って市内を走りながら、いたるところで発砲し、多くの市民と学生が射殺された。市民には武器がなかった。

暴動はその夜のうちに台北県下の基隆(キールン)に波及した。

翌三月一日には、新竹、台中、彰化(台湾中部の都市)に、二日には、嘉義、台南、高雄、屏東(へいとう)(台湾最南部の都市)に拡大し、四日には東台湾にも波及した。

組織も計画もなく突発的に起こった暴動が、またたくまに全島に広がったのは、台湾人の鬱憤のエネルギーの大きさを見せつけるものであった。

三月一日、台北市民は自ら暴力を戒めて、秩序維持に努めようとしていた。青年たちは、逃げてしまった警官の代わりに市内をパトロールした。市参議会は議員や有力者を集めて、「煙草摘発不祥事件調査委員会」を組織し、陳儀に戒厳令の解除と、政府も加わった処理委員会の設置などを要求した。今回の蜂起を、公正な政治を求める運動にしようとしていたのだ。

陳儀は承諾し、二日に戒厳令を解除し、処理委員会に様々な分野から市民の代表を招いた。一瞬、民主的なポーズに思われたが、後になってわかったことには、陳儀は、各人物が政府に対してどんな考えを持っているかを知るために、その場を利用したのである。そして、八日から始まった大虐殺では、これらの人々が一網打尽に殺されたのである。

武力鎮圧を命じた蔣介石

三月二日、台北で処理委員会が開かれているころ、私のいる台南では新聞の号外版で台北市民の蜂起を知った人々が興奮で沸き立っていた。兄からの手紙はまだ届いていなかったので、私は兄のことが心配でたまらなかった。夜になると、青年たちが警察の派出所を襲撃した。警官は武器を放棄した。

三日には市民大会が開かれ、台北市民への支持、省政の全面的改革、市長の民選が決議された。中国人との小競り合いもあった。弟の育彬(いくひん)たちは、田舎での戦いに参加すると言い、武器を持って出かけていった。

四日、私は大正公園のあたりに行ってみた。この界隈の元州庁、参議会館、警察署、測候所などの建物は市民に占領されていた。多くの人々が街に溢れて興奮していた。中国人はすっかり姿を消してしまい、聞こえるのは台湾語と日本語の混じりあった声だけであった。

「自由平等!」
「打倒、貪官汚吏(汚職まみれの役人)!」
「要求自治!」

威勢のいいスローガンが台湾語で叫ばれ、日本の軍歌が歌われていた。台湾語の歌がほしいと私は切実に思った。

一年半のあいだ、中国人の横暴な政治に我慢させられてきたが、これからやっと少しは台湾人の権利も認めさせて、良い生活ができるのだという期待で、私たちは興奮していた。それは当たり前の要求で、それまでが間違っていたのだ。

その他の都市でも、大体同じ様子で、台湾人は、官公署、公営企業を接収し、中国人の店から物を持ち出して焼き払った。中国人は田舎や山へ隠れてしまった。台湾人は中国人を見つけると、殴りかかった。

そこで、中国人は台湾人になりすまして難を逃れようとした。それを確認するのに、日本語や「君が代」が使われた。日本語で答えられなければ、戦後来た中国人だとわかるのである。

三月四日には、台北で全省処理委員会が成立した。常務委員会を設け、その下に総務、治安、調査、交通、糧食、財務の各組を置いた処理局と、交渉、計画の各組を持つ政務局が作られた。

平和的な解決を求める委員会に対し、元日本軍人、青年団体、学生組織は、陳儀との平和的な交渉は無駄だと見て、即時全面武力抗争を主張した。

このとき、陳儀はすでに蔣介石に状況を報告し、増援軍の緊急派遣を要請していた。それに対し、蔣介石は一も二もなく武力鎮圧の命令を下した。陳儀への電文は「Kill them all. keep it secret(秘密裏に台湾人を皆殺しにせよ)」であったと、蔣介石の側近(侍衛官)だった翁元(あるいは曹聚仁)が書き残している(『侍衛官日記』)。

蔣介石は共産軍と戦う準備をしていた国民党軍二個師団をただちに台湾へ差し向けた。一方、陳儀は時間稼ぎのため、台湾人の要求を受け入れるような態度を見せていた。

処理委員会は楽観的すぎた。一年半ものあいだ、さんざん中国人のやり方を見てきたはずであるのに、ここへきてもなお、中国人のウソが見抜けなかったのである。

四日付の新聞「民報」にはこんなふうに書かれている。

「過去はもう言うまい。現実を見つめて緊急措置を講じ、有効な方策を実行に移していこう。旧いことは昨日で死んだ。未来は今日始まった。努力して前進しよう。光明の途(みち)を求めて」

三月七日には、大陸から軍隊が向かいつつあるとの噂が広がり、市民は震え上がってしまった。処理委員会は王添灯が起草した「三十二ヶ条要求」を採択し、陳儀に提出した。王はこれがすぐに実行されることはないと思いながら、遺言のつもりで書いたのだ。

私は、これを台湾人の「人権宣言」だと思っている。「三十二ヶ条要求」の骨子は、次の五つであった。

* 政府内においての台湾人の平等に関するもの。言論の自由。
* 個人の生命財産の安全保証に関するもの。
* 経済政策と経済行政の改革に関するもの。
* 軍事行政に関するもの。
* 社会福利問題に関するもの。

これだけの内容を混乱の中でまとめ上げたことからも、台湾人知識人の優秀さと層の厚さがわかるというものである。自分たちの手によって良い国を作りたいという切なる願いがひしひしと伝わってくる。王添灯は、このわずか数日後に殺された。

三月八日、陳儀は「三十二ヶ条要求」を拒否した。その夜から翌九日にかけて、中国国民党軍は続々と上陸を開始し、台湾人に対し無差別な殺戮を始めた。陳儀はその間に全島にふたたび戒厳令を布き、処理委員会をはじめあらゆる団体の解散を命じ、関係者の一斉逮捕を開始した。

三月十日のラジオ放送で、蔣介石の処理方針が示されたが、それは陳儀の暴政については一言も触れず、「暴動は共産党の扇動によるもの」と論断されていた。この放送で、初めて台湾人は蔣介石の本性を知ったのである。

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