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宝塔(ほうとう) 多宝塔(たほうとう) 鉄宝塔(てつほうとう) 金銅宝塔(こんどうほうとう)
宝塔 (ほうとう)
円形の塔に屋根をつけた一重塔のことです。
金銅宝塔 (こんどうほうとう)
たほう-とう ―たふ 0 【多宝塔】
釈迦・多宝の二仏を祀(まつ)る塔。「法華経(見宝塔品)」の説によるもの。二重の構造をもつ宝塔で、初重は方形、二重の軸部は円筒形、屋根は方形。上下の連続部分は饅頭形(亀腹)となっている。日本では平安前期より造られたが、現存するものでは鎌倉時代の石山寺のものが最古。
多宝塔 読み方:タホウトウ(tahoutou)
宝塔の円形塔身に屋蓋と方形の裳階を付した塔。
多宝塔の出典
多宝塔は、「法華経」見宝塔品第十一に出てくるもので、釈迦が法華経を説法していると多宝塔が現れ、中にいた多宝如来が半座を空け、釈迦に座を譲ったとされることに由来する。
見宝塔品には、「世尊(釈迦)が説法をしていると、大地から巨大な七宝塔(金、銀、瑠璃などの七宝で造られた塔)が涌出(ゆじゅつ)し、空中にそびえた」との説話がある。この宝塔は過去仏である多宝如来の塔であった。塔内にいた多宝如来は釈迦の説く法華経の教えを讃嘆し、正しいことを証明して半座を空け、釈迦とともに並んで座ったと説かれる。「多宝塔」の名称はこの法華経の所説に由来するものと思われる。ただし、漢訳経文中の用語は「宝塔」または「七宝塔」となっている。
この見宝塔品のエピソードは法華経の中でもドラマチックな場面の1つであり、法華経の真実性を証明するものとして著名で、さまざまな形式で造形化されている。たとえば、奈良県長谷寺所蔵の銅板法華説相図(国宝)はこの見宝塔品の場面を造形化したもので7世紀末の作品である。ただし、この作品に表されている塔は平面六角形の三層塔である。
形式
「法華経」見宝塔品第十一自体には、多宝塔(宝塔)の形式は記載されておらず、現在日本で見られるような多宝塔(宝塔)の形式については、日本独自のものといわれている。中国や古代日本で多宝如来・釈迦如来を安置する塔には五重や三重の塔があったと考えられている。
多宝塔
現代の寺院建築用語では初重平面が方形、二重平面が円形の二層塔を多宝塔と称するが、さらに狭義には初重が方三間(1辺に柱が4本立ち柱間が3間あるの意)のものを多宝塔と称し、方五間のものを「大塔」と称する[2]。天台系には初重・二重とも平面方形の二重塔があるがこれは単に「二重塔」と呼称している。多宝塔の初重内部は須弥壇を設け、仏像を安置するのが原則で、石山寺多宝塔のように大日如来を本尊として安置する例が多い。
宝塔
「宝塔」は歴史的用語としては「塔」の美称であり、特定の建築形式を指すものではないが、現代の寺院建築用語では、円筒形の塔身に宝形造(四角錐形)の屋根を載せた形の塔を「宝塔」と呼ぶ。この形式の「宝塔」は徳川将軍家の霊廟などにも用いられ、銅製や石造のものをしばしば見るが、木造の塔でこの形式のものは少ない。このような平面円形の「宝塔」形式の塔に庇を設けたものが多宝塔の原型とされている。多宝塔では初重と二重の間に「亀腹」と称する漆喰塗りの円形部分があり、円筒形の塔身の名残りを見せている。ただし、円筒形に見えるのは外観のみで、構造的には四角い初重の上に平面円形の上層部を乗せたものである。2010年(平成22年)木造で大型の宝塔形式による、池上本門寺宝塔が重要文化財に指定された。
多宝塔形式の起源
初重を平面方形、二重を平面円形とする二層塔は日本独自の形式であり、平安時代初期に空海が高野山に建立を計画していた毘盧遮那法界体性塔(びるしゃなほっかいたいしょうとう)にその原型が求められる。この塔は空海の没後に完成し、その後も何度か焼失と倒壊を繰り返して、現在高野山にある塔(大塔または根本大塔と呼ばれる)は昭和12年(1937年)に再建された鉄筋コンクリート造のものである。この塔の創建時の形態は、現在の多宝塔に近いものであったと考証されている。
空海とともに平安時代初期の仏教界で活動した最澄は法華経千部を安置する塔を日本各地の6か所に建立することを計画した。これは現在で言う多宝塔とは異なり、初重・二重ともに平面方形の二重塔であった。現在、比叡山延暦寺にある法華総持院東塔は1980年に建立されたものだが、初重・二重とも方形の形式を保っている。この形式の二重塔で近世以前にさかのぼるものはきわめて少なく、徳島県の切幡寺塔婆はその貴重な遺例である。この切幡寺塔は、もとは大阪の住吉大社の神宮寺にあり、元和4年(1618年)に建てられたものだが、明治時代初期に現在地に移建されている。
ほうきょういんとう ほうけふいんたふ 【宝篋印塔】
宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔。方形の基礎・塔身・蓋からなり、蓋の上に相輪を立てる。蓋の四隅に隅飾り突起がついているのが特徴。のちには供養塔・墓碑塔にも用いられた。聖塔(しようとう)。
宝篋印塔読み方:ホウキョウイントウ(houkyouintou)
石造中型の塔。
起源
中国の呉越王銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされている。これは、インドのアショーカ王が釈迦の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったものだという。 日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになった。
名称は、宝篋印陀羅尼(宝篋印心咒経/ほうきょういんしんじゅきょう)を納めたことによる。ただし、他のものを納めていても同形のものは、すべて宝篋印塔と呼ぶ。本来的には、基礎に宝篋印心咒経の文字を刻む。 五輪塔と同じく密教系の塔で、鎌倉期以降宗派を問わず造立されるようになった。
構造
宝篋印塔の各部と名称
最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)と呼ばれる突起がある。笠の下の方形の部分は、塔身(とうしん)、さらにその下の方形部分は基礎と呼ばれる。
この塔身部に四角の輪郭が刻まれずに基礎部の格座間が一つの型が関西形式と呼ばれる基本の型である。塔身に四角の輪郭を刻まれて基礎部に格座間(こうざま)が二つあるものは関東形式と呼ばれる。名称の通り、関西形式は関西地方に、関東形式は関東地方に分布する。
太字は図中に記載あり
宝篋印塔の基本形式は、以上の通りであるが、時代・地方により、多少の違いが見られる。例えば頂上部の宝珠については、時代が下るとともに、膨らみが失われ、室町期・江戸期を通して先端が尖っていくという特徴がある(この特徴は宝珠全体のもので、先述の五輪塔・宝塔・石灯籠・擬宝珠(ぎぼし)においても同様である)。隅飾は、同じように時代が下るごとに、外側へ張り出す傾向があり、江戸期には極端に反り返る隅飾になった。基礎部下の基壇も、次第に返花座などの飾りをもたない方形石の基壇となる。また、塔身・基礎部の大きさの違いをはじめ、塔身に方角に対応した仏の種子や像のレリーフを刻む、二重輪郭をとるなど、塔によって様々な形態がある。
意義
先述の通り、宝篋印塔はもとは密教系の石塔ではあったが、鎌倉期以降は宗派を超えて造立されるようになった。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養をすませること)の供養塔、墓碑塔として、五輪塔とともに多く造立された。
鎌倉地方の丘陵部に多く存在するやぐらには、宝篋印塔が置かれる場合や、宝篋印塔のレリーフが彫られている例がある。ほぼ、五輪塔と同じ意義で用いられたことが考えられるが、作例は五輪塔よりも少ない。
律宗僧と石工
石造宝篋印塔のような石造美術品、特に中世期のものを見るうえで、律宗僧及びその関係の石工たちの存在に注目しなければならない。中世期は、平安期に比べて石造美術品の造立数は格段の数となり、奈良の西大寺の叡尊や忍性といった律宗僧の戒律復興運動の全国展開により、彼らが招いて、率いた石工たちにより、優れた石造美術品が残された。現在も律宗系寺院または律宗系寺院の廃寺の跡において、このような石造美術品が多い。
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