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故鄉、母校
2010/11/20 23:30:08瀏覽267|回應0|推薦0

故郷、母校                          莊順發醫師

       翻譯:  成大台文所博士班伊藤佳代

 

ふるさとへ戻ると、故郷だけではなく、幼い頃の日々が懐かしく思い出される

 

母校へ戻ると、母校だけではなく、青春の日々が懐かしく思い出される

 

私は彰化県の南端に位置する二林という農業の町に生まれた。一般にそこは三多と呼ばれ、つまり風と砂埃が多く、そしてヤクザ、飲み屋の多いところというイメージがもたれている。また、二林の旧称は「儒林」といって、文豪や学者を傑出するところでもある。

ともかくほかの人がどう思うとも、私にとってそこは幼年から青春期を過ごした思い出のある場所なのだ。

ところで、王維の雑詩に次の詩がある。

 

君 故郷より来たる
  (まさ)に故郷の事を知るべし
  来たる日 綺窓(きそう)の前
  寒梅 花を()けしや未だしや

王維は寒梅の様子を尋ねているのではなく、実はふるさとの人や物事、

そして幼い日々を思い浮かべているのである。

 

私は二林という所に対して、深い思い入れがある。二林には牡蠣のオムレツや素食麵、肉づめ団子や赤牛麵など地方名物料理や香り高い金香葡萄などの名物がある。が、それだけではなく、そこにはなんと言っても私たちの成長を見守ってくれた家族や親友がいるのだ。

その中で特に「赤牛麵」という店名の由来について言うと、二林の野菜市場に掛けてある「赤牛麵」の看板を見ると、外の土地から来た人誰もが牛肉麵の店だと思ってしまう。しかし実はこの「赤牛麵」は牛肉の麵ではなく、豚肉の入った麵である。というのは店長の学林氏が創業者である祖父の努力と成功を記念するため祖父のニックネームであった「赤牛」を店名にしたのだ。このことは二林の人なら誰でも知っている。

 

 私が記憶しているのは、私が台南から車で二林の「赤牛麵」を食べに行こうと提案した時のことである。私の妻はあまり気乗りがしない様子、それに引き換え私の妹は大変乗り気な様子で、私たちは往復200キロをかけて「赤牛麵」を食べに二林へ向かった。そこでいくつかの料理を注文し、腹一杯になって

満足してから、それはそれは楽しい気持ちで台南に帰ったのだった。私と妹にとってはあの一杯の麵には幼年時代の思い出が詰まっている。あの麵を食べると、麵の香りとともに幼い頃の思い出が次々と頭に蘇ってくるのだ。しかし私の妻は雲林人である。「赤牛麵」を食べた後の彼女の評価は「ただこれだけの味じゃない!」ということだった。ただ私と妹だけがあの一杯の麵を食べた時心の奥で過去の埃にまみれた若かりし頃を思い起こしていたのだった。麵屋の店長がかつて話してくれた話では、ただ一杯の「赤牛麵」のために、はるばる花連から来る同郷人もいるという。さらには香港に嫁いだある同郷人が、飛行機で台湾に戻り、車に乗り継いで二林の「赤牛麵」を食べに来たこともあったそうだ。もちろん「赤牛麵」に魅力があるのはもちろん、その小さな一杯の麵だけでなく、それはふるさとに対する深い思いが原動力になっているのだ。

 

二林地域には二林四郷鎮(二林、大城、芳苑、竹塘を含む)という伝統的な呼び方があってこの四つの郷と鎮の人々に対して特に関心を注ぎ、特別な感情を持っている。たとえば歌手の陳雷は大城郷の人であるが、彼の歌を聴くと、なにか格別な味わいを感じる。「保力達B」のテレビコマーシャルで芳苑郷出身の王功が懸命に励む「牡蠣採り人」を演じているのを見ると、彼らの苦労や勤労精神が思い出され、感動と敬服の気持ちで一杯になる。そのほか、台湾で有名な「三好米」の産地は雲林の西螺鎮、二崙郷と彰化の竹塘郷である。この辺りは濁水渓両沿岸に位置し、肥沃な土壌のおかげで米も特別甘くておいしい。そのため多くの消費者から広く好まれている。「三好米」の広告を見るたびに私はいっそう親しみを感じてしまう。また以前読んだことのある二林の小説家洪醒夫の大作である『散劇』は、20年後の今読み返しても未だに不思議と胸が高鳴る。中学時代の同級生であった洪碧雀が台南で裁判官になったという知らせを偶然耳にしたときも、特にうれしく感じたものだ。

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屈原の哀郢(あいえい)のなかに「鳥は飛んで故郷へ返り、狐は死して必ず丘に(まくら)す」とある。鮭が稚魚のときのにおいを頼りに川を上る。激流に遭い体が傷ついても卵を産むために生まれた場所に命がけで戻り、新しい命を受け継いでいく。生き物が斯くあるように、人もまた例外ではない。王(さん)の「登楼賦」には次のように述べられている。「鐘儀(しょうぎ)(とらわ)れて()(そう)し、(そう)(せき)顕れて越吟(えつぎん)す。人情土(にんじょうど)(おも)うに同じ、あに(きゅう)(たつ)して心を(こと)にせんや」。つまり人は空間の移動や時間の経過、また生活環境が変化したとしても、故郷に対するさまざまな思いは変わらないのだ。

 

 しかしながら、生まれ故郷で過ごし成長していくうちに、就学や仕事等の関係で往々にして人生のもう一つの故郷が生まれることがある。これは命の不思議な旅路である。今まで私は台湾各地に住んだが、その中でも台南は私にとって第二の故郷といえるだろう。過去40年の歳月の半分を古都府城で過ごした私は、「成功大学医学院生理研究所」を卒業し、3人の子供もみな「成功大学病院」で生まれ、生粋の「府城人」となった。妻は台南で働き、私達はこの古都で産を成し、納税し、家族の生活圏はすべてこの台南地区内である。武廟、天后宮は私たちの信仰の中心であり、七股の潟湖、土城の四草湖は私たちがバードウォッチングをするときによく出向く場所である。また孔子廟、赤崁楼、億載金城は子供たちの宿題のレポート作成のために必ず訪れるスポットで、廖家七面鳥ご飯、周氏海老巻、阿憨のお粥は私たちがよく休日に食べに行くところだ。また私には台南出身の3人のクラスメートがいるが、退役後、彼らは皆台北で仕事に就き、偶然にもみな台北県市で医院を開業したのだった。以前台北で彼らと話したとき、彼らは私に将来開業するならばどの都市を選ぶか?と聞いた。そのとき私の心の中には確かな答えがあった。それは台南である。そして私たちお互いの居住地は変わらないため、彼らは次第に台北人らしくなっていった。そして私はゆっくりと大台南の生活圏に溶け込んでいった。

 

私の学生時代はまさにキャンパスフォークが流行していた時期で、寝室、教室、運動場、体育館などいたるところでギターを抱え「如果」「オリーブの樹」「帰人砂城」「廟会」を唄う人を見かけた。もちろん私たちも例外ではなかった。ある時授業の前に一人のクラスメートが大きな声で歌い始めた。「もしも君が朝露ならば、僕はあの草になろう、もしも君があの雲ならば、僕は、、、」半分まで歌ったその時、国語の先生が入って来てこう言った。君たちのは歌を歌っているんじゃなくて、歌を声に出して読んでいるんだ、と。そこでクラスの学生が「じゃあ先生、どんな歌だったら歌を歌ったと言えるんですか?」と意地悪そうに聞いた。先生は大きな声で「鐘山青と高山春だ。」と答えた。クラスメート達は先生一曲歌って下さいとみなで騒ぎ立てた。すると先生は惜しみなく「鐘山青」を歌い出し、その歌声は教室中にこだました。歌い終わると学生達の熱烈な拍手喝采と、「アンコール」の声が鳴り止まなかった。このとき先生は我を忘れたように陶酔し、再び声高らかに「高山青」をうたい始めると、それに合わせ学生たちも一緒になって歌った。「高山は青く、水は青く、、、」。歌い終わった時、先生はまだ物足りなさげな様子だったが、その時私は先生の気持ちがあまり理解できなかった。しかし私が教師となってから、ある時謝恩会でクラスメートが私に彼らの言う「国歌」を歌うように熱心に勧めてきたことがあった。私はそのとき本当の国歌だとばかり思っており、国歌の歌詞「三民主義、、、我が党の指針、、、」を頭の中で思い出していた。とそのとき聞こえてきたのは、アンディ、ラウの「忘情水」だったのだ。しかし悲しいことに私は歌詞の一句も歌うことができなかった。そのとき私は、あの先生が当時「鐘山青」、「高山春」を歌った意味がやっと分かったのだ。歌がうまいかどうかは問題ではない。あの時先生が「鐘山春」、「高山春」を歌った時、先生は自分の恋人を抱きしめ踊ったかつての日々に思いを馳せていたのだ。過去の思い出を懐かしむということを、当時の私たちにどうして理解できただろうか?その時先生の頭の中に浮かび上がっていたのは過去の思い出だったということを、今になって悟ったのである。たとえばそれは、祖父や祖母にとっては「望春風」「雨夜花(ウヤホエ)」であり、私達にとってはフォークソング、私の学生にとっては「忘情水」「吻別」、若い世代の人にとってはジェイ・チョウの「青花瓷」ジョリン・ツァイの「舞嬢」であったりするのだろう。

( 創作散文 )
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