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故鄉、母校
「一字值萬金」活動 慶祝臺灣臺南縣市升格直轄市 辦法:1. 只要找到「故鄉、母校」文章內容有一個錯字獎金新台幣一萬元整。 2.標點符號錯誤不採計,列印字體以標楷體字型為標準。 3.如有爭議請臺灣三位文學專家評定之。 4.對象:全世界看得懂華文繁體字均可。 5. 彌封信函的答案請寄掛號信至臺灣臺南市北區704文元郵局第00049號信箱莊順發醫師收 即可(隨函請附寄您的真實姓名 、國別、身份證字號、出生年月日、地址、 連絡電話及E-mail,彌封的目的是防止答案外洩。)連絡E-mail: alpha168a@gmail.com或電話﹕(06)-2507158 莊順發醫師 部落格:http://www.wretch.cc/blog/alpha8930049 6. 1~10名獎金各一萬元整;11~20名獎金各九千元整;21~30名獎金各八千元整;31~40名獎金各七千元整;41~50獎金各六千元整;51~60名獎金各五千元整;61~70名獎金各四千元整;71~80名獎金各三千元整;81~90名獎金各二千元整;91~100名獎金各一千元整,101~1000名故鄉、母校散文集各一本,每人只限得獎一次,動作要快。 7. 截止日期2013年12月31日截止,排名順序以郵戳為憑。答案及得獎人名單於2014年2月10公佈;得獎人應繳10%稅金給臺灣政府。 8.依據臺灣教育部部頒繁體字辭典為主;教育部重編國語辭典修訂本-主站 http://dict.revised.moe.edu.tw/。 9.爭議性字如豈只 (止)是,以資(茲)紀念,口腹之欲(慾),起鬨(閧、哄),好據(聚)點,消(宵)夜,迴腸蕩(盪)氣,嬉 (嘻)笑怒罵,心驚膽跳(顫) 這些除外。莊順發醫師 第二部落格: http://blog.udn.com/alpha888 第三部落格: http://blog.udn.com/alpha168a 故鄉、母校 莊順發 當我們回到故鄉,不只是思念故鄉,更是思念童年往事; 當我們回到母校,不只是懷念母校,更是懷念青春歲月。 我出生於彰化縣南端的一個農業小鎮─二林,在一般人的印象中,那兒有三多—風沙多、流氓多、酒家多。二林舊稱「儒林」,有文風鼎盛、地靈人傑之意。不管別人認知如何?那兒是我整個童年及青少年的記憶所在。王維雜詩:「君自故鄉來,應知故鄉事,來日綺窗前,寒梅著花未?」王維所思念的豈只是寒梅開花與否?其實他真正思念的是故鄉的人、事、物及童年的微風往事。 對於二林,我總有著一份深厚的情感,那裡有令人垂涎三尺的地方小吃,如蚵仔煎、素食麵、肉圓和赤牛麵;還有那香氣濃郁的金香葡萄;更有看著我們長大成人的親朋好友。其中值得一提的是「赤牛麵」店名的由來,外地人到二林菜市場看到「赤牛麵」的招牌,都會以為是賣牛肉麵,但世居二林地區的人都知道赤牛麵不是添加牛肉,而是用豬肉當佐料。老闆廖學林先生為了感念先祖父的創業維艱,及為了緬懷其努力成果,所以用祖父的綽號「赤牛」作為店名,以資紀念。 猶記有一次,我提議要從臺南開車回故鄉二林吃「赤牛麵」,老婆意興闌珊,但小妹卻興致勃勃,我們來回開了二百多公里回二林吃「赤牛麵」、點了些小菜,滿足了口腹之欲後,帶著快樂、愉悅的心情回臺南。對於我和小妹而言,那碗麵有著童年的印記,吃著那碗麵,兒時的回憶伴著麵香縈繞腦海,久久不散。而我老婆是雲林人,她吃那碗「赤牛麵」後評論說:「味道不過如此而已!」唯我和小妹當下吃那碗麵時,我們的內心深處是在咀嚼已然消散的前塵往事、青澀時光。麵店的老闆曾經提到,有個同鄉遠從花蓮回來,只為了吃一碗「赤牛麵」,更有甚者是另外一位遠嫁香港的同鄉,專程搭機回臺灣,再轉車到二林吃麵。當然,之所以會有如此動力,不僅止於那碗小小湯麵,而是源於故鄉的深厚情感。 關於二林地區,有一個傳統說法,是指二林四鄉鎮(包括二林、大城、芳苑、竹塘),對於同屬這四鄉鎮的人總會特別關注、特別有感情!例如:歌星陳雷是大城鄉人,聽他唱歌總是別有一番滋味在心頭;看到電視中「保力達B」的廣告,描寫芳苑鄉的王功辛勤「養蚵人」的點點滴滴,想到他們辛苦的模樣和刻苦耐勞的精神,總令我感動不已、敬佩萬分!另外,名聞全省的「三好米」的產地是在雲林的西螺鎮、二崙鄉和彰化的竹塘鄉,它們位於濁水溪沿岸兩旁,土壤肥沃,種植出來的稻米特別香甜好吃,廣受消費大眾的喜愛,每次在媒體看到「三好米」的廣告倍感親切。以前曾經拜讀過二林小說家洪醒夫的大作—散戲,二十年後再讀,仍然有股莫名的悸動。偶然從報上獲悉國中同屆洪碧雀同學在臺南當法官的消息,亦是與有榮焉。 屈原的哀郢中云「鳥飛返故鄉兮,狐死必首丘。」而鮭魚靠著兒時嗅覺記憶,溯江而上,經過湍流亂石,致使遍體鱗傷,甚至犧牲性命在所不惜,千辛萬苦只為了在原鄉產卵,使生命綿延不絕。生物如此,人又何嘗不是呢?王粲的「登樓賦」曾這樣敘述:「鍾儀幽而楚奏兮,莊舄顯而越吟。人情同於懷土兮,豈窮達而異心!」。所以,無論人經歷空間的轉換、時間的流逝、境遇的變遷,對於故鄉千絲萬縷的思念情懷,何曾改變? 然而,每個人在家鄉漸漸長大,或許會因求學或就業的關係,往往造就人生當中的另一個故鄉,這是生命中的奇妙旅程。住過臺灣各大城市,臺南應算是我的第二個故鄉,在過去四十年的歲月裡有一半時光,居住在古都府城,畢業於「成大醫學院生理研究所」,而三個兒子皆誕生於「成大醫院」,成為道道地地的「府城人」。老婆也在臺南就業,我們在古都置產、納稅,全家人的生活圈都在大臺南地區。武廟、天后宮是我們的信仰中心;七股的潟湖、臺江的四草湖是我們賞鳥的好去處;孔廟、安平古堡、億載金城是孩子撰寫作業報告必須造訪的景點;廖家火雞肉飯、周氏蝦捲、阿朝羊肉等也常是我們假日用餐的好據點。另我有三位出生於臺南的同班同學,退伍之後,他們都去臺北奮鬥事業,不約而同皆於臺北縣市開業,前些日子在臺北跟他們閒聊,他們問我將來「開業行醫」會選在那個城市呢?當下我心中有個肯定的答案,就是臺南。短期內彼此居住的地點不會異動,漸漸地他們更像臺北人;然而,慢慢地我也融入大臺南的生活圈。 在我學生時代正是「校園民歌」流行潮,無論在寢室、教室、操場及體育館到處可見有人抱著吉他唱「如果」、「橄欖樹」、「歸人沙城」及「廟會」,當然我們也不例外。有一次上課之前,班上同學正興高采烈唱著:「如果你是朝露,我願是那小草;如果你是那片雲,我願是……」歌曲唱到一半,國文老師進門來,就評論我們不是唱歌而是唸歌,於是班上調皮的同學,當下就請教老師唱什麼歌才叫唱歌?老師以宏亮的聲音告訴我們:「鍾山春、高山青」。接著全班同學起鬨請老師高歌一曲,老師也不吝嗇的唱起「鍾山春」,歌聲迴腸蕩氣充滿整個教室,唱完後,班上的同學報以熱烈的掌聲又「安可」不斷,此時老師陶醉忘我,再拉起高亢聲音接唱高山青,全班同學附和著:「高山青...澗水藍...」,唱完時,似覺老師仍意猶未盡,那悠悠情懷是當時的我難以體會的。直到為人師表,在一次謝師宴當中,同學熱心幫我點了一首他們所謂的「國歌」要給我唱,當初的我真以為是國歌,內心開始默背國歌歌詞「三民主義...吾黨所宗...」,但當音樂聲響起,我知道那首歌是劉德華的「忘情水」,但悲哀的是,我一句也唱不出來,當下的我才深深體會老師在當年唱「高山青」、「鍾山春」對他的意義,好不好聽已不是重點,而是他在唱「高山青」、「鍾山春」時,是神馳於過去摟著女朋友翩翩起舞的時光;沉浸於過去深刻記憶匣子,當時的我們怎能體會?如今我才領悟到他所陶醉著迷的是過往心靈深處的回憶。猶如「望春風」、「雨夜花」之於祖父、祖母;民歌之於我們;「忘情水」、「吻別」之於我的學生;周杰倫的「青花瓷」、蔡依林的「舞孃」之於新世代,它的道理是一樣的。 在一生當中最值得珍惜、懷念的應是高中及大學求學的時期,高中準備聯考的時光雖令人難以忘懷,但大學的生活更令人魂牽夢縈。人生相逢自是有緣,來自不同的縣市、不同的高中,考上相同的科系,一群志同道合的同學聚集一堂,為未來的人生及事業做準備,是多麼美好的事! 大學有三種生活(課業似主餐,社團像水果,戀愛如宵夜。)在醫學院科系中,大多數的同學都是以自己所學的專長作為一生的志業,繁重的課業常令人喘不過氣來,因此也特別刻骨銘心,其中令人心驚膽跳是「跑檯」或稱「跑考」和「實際操作考」,這兩項考試都要在很短時間內完成艱深的答案,不論是實物(如藥材或大體)或顯微鏡下的「寄生蟲」或「病理組織切片」,都令同學們直冒冷汗。其中「大體實驗」更讓醫學生第一次深刻感受成為醫師的重大責任,我們何德何能有此機會全然接受「大體老師」無言的身教呢?記得曾經有位「大體老師」生前罹患重病,在簽下捐贈大體同意書,給予醫學院學生作為解剖的研究時,他曾說過一句感人肺腑的名言:「寧願你們在我身上劃錯千刀萬刀,不願你們在實際臨床劃錯一刀!」這種無私奉獻的精神,更讓走過醫學教育的學生畢生難忘。 無論功課研討或社團參與過程當中,有時男女同學會擦出愛的火花,「校園情侶」或「班對」悄悄產生。年輕人敢瘋狂愛和恨,所以青少年時期的愛情有如「癌症」,沒發現時,恰似無事一般,當愛苗點燃時,往往一發不可收拾。其實,感情是兩人內在的心靈交流,在大學當時,卻常常成為同學、室友的團體遊戲;班上的八卦,往往勝過國內外的頭條新聞,更能引起同學的注意。然而事與願違,造化弄人,猶如「羅馬假期」劇中男女主角的結局,情投意合的戀人不能結為連理,但無論如何,這是唯一且不可取代的。假如在感情路上,成就姻緣,是完美的結局,將擁有未來人生旅途的伴侶;反之,相識無緣,是遺憾的結果,只能擁有無盡的回憶。此外,大學的生活也有其輕鬆、浪漫、愜意的一面,在斗室內品茗談心,把人生的理想和抱負分享於志趣相投的摯友,大夥席地而坐,笑聲朗朗,促膝秉燭夜談,高談闊論話人生,這種快樂時光,常常令人流連忘返。 對於離校多年的「三、四、五年級生」而言,過去高中、大學的生活,一切都只是回憶,人生往往只能回顧,不能回頭;只能回頭看,不能再回頭。是該傷心流淚?還是飲酒乾杯?傷心流淚會憔悴;乾杯會醉,還是把它留在記憶裡慢慢去回味。無論如何,在高中、大學這段日子裡,充滿了酸、甜、苦、辣的回憶,年老之時,溫一壺濁酒話當年,應該慶幸自己擁有個無怨的青春。所以台積電張忠謀董事長說:「人生值得懷念、回憶的事,不是往後中年飛黃騰達的高峰期,而是三十三歲之前青壯年求學、扎根、奠定基礎的青春歲月之成長期。」 畢業後十年,同學相約到母校,將近午夜一點開車到校門口,各自停好車,慢慢往校園走去,宛如「魂斷藍橋」片中的男主角,走在橋上追尋昔日女友的倩影一般,同學們邊走邊回憶著從前在校園的時光種種,或坐、或臥、或跑、或跳、或高歌一曲、或仰天大笑。走過以前的操場、圖書館、宿舍,撫摸當時曾坐過的椅子,此情此景猶如李白「春夜宴桃李園序」的場景,亦如王羲之「蘭亭集序」的描述,往日已飛逝時光似乎再躍於眼前,大夥嬉笑怒罵、互相調侃、揶揄彼此過去的糗事、趣事,不知不覺已凌晨四點多了,大家懷著依依不捨的心情走出校園,竟有兩位同學抱頭痛哭流涕,此時此刻,我的腦海閃過崔護「題都城南莊」的名詩:「去年今日此門中,人面桃花相映紅。人面不知何處去,桃花依舊笑春風。」一切景物依舊,人去樓空,一代新人換舊人,頗有物是人非之感嘆!更讓我想起陳子昂的詩句:「前不見古人,後不見來者。念天地之悠悠,獨愴然而涕下。」我故作鎮定安慰那兩位同學:「不要哭了!不要哭了!明天還要上班。」回到車上,慢慢駛向回家的旅程,當車內音樂響起木匠兄妹的「昨日重現(Yesterday once more)」歌聲時,不知不覺自己的眼眶竟含著淚水,感慨自己不如他們那般地勇於表達自己的情感,心中不由得遙想著往日那段年少輕狂的歲月……。 Hometown, Almamater Original/Chuang Shun Fa Translate/Arthur W. • Reviser: 陳璧清 (Pi-Ching Chen) 副教授 Returned home, there was not only homesick, but missing my childhood; Returned to my alma mater, there was not only missing it, but remembered youthhood. 故郷、母校 荘 順發 翻譯: 成大台文所博士班伊藤佳代 ふるさとへ戻ると、故郷だけでなく、幼い頃の日々が懐かしく思い出される 母校へ戻ると、母校だけでなく、青春の日々が懐かしく思い出される 私は彰化県の南端に位置する二林という農業の町に生まれた。一般にそこは三多と呼ばれ、つまり風と砂埃が多く、そしてヤクザ、飲み屋の多いところというイメージがもたれている。また、二林の旧称は「儒林」といって、文豪や学者を傑出するところでもある。 ともかくほかの人がどう思うとも、私にとってそこは幼年から青春期を過ごした思い出のある場所なのだ。 ところで、王維の雑詩に次の詩がある。 君 故郷より来たる 応(まさ)に故郷の事を知るべし 来たる日 綺窓(きそう)の前 寒梅 花を着(つ)けしや未だしや 王維は寒梅の様子を尋ねているのではなく、実はふるさとの人や物事、 そして幼い日々を思い浮かべているのである。 私は二林という所に深い思い入れがある。二林には牡蠣のオムレツや素食麵、肉づめ団子や赤牛麵など地方名物料理や、香り高い金香葡萄などの名物がある。が、それだけではなく、そこにはなんと言っても私たちの成長を見守ってくれた家族や親人がいる。 中でも特に「赤牛麵」という店名の由来について言うと、二林の野菜市場に掛けてある「赤牛麵」の看板を見ると、他の地域から来た人なら誰もが牛肉麵の店だと思ってしまうだろう。しかし実はこの「赤牛麵」は牛肉ではなく、豚肉入りの麵なのだ。というのは店長の廖学林氏が創業者である祖父の努力と成功を記念するため、祖父のあだなであった「赤牛」を店名にしたからである。このことは二林の人なら誰でも知っている。 私が記憶しているのは、台南から車で二林の「赤牛麵」を食べに行こうと提案した時のことである。妻はあまり気乗りがしない様子、それに引き換え私の妹は大変乗り気な様子で、私たちは往復200キロをかけて「赤牛麵」を食べに二林へ向かった。そこでいくつかの料理を注文し、腹一杯で満足した後、それはそれは楽しい気持ちで台南に帰ったのだった。私と妹にとってはあの一杯の麵には幼い頃の思い出が詰まっている。あの麵を食べると、麵の香りとともにたくさんの思い出が次々と頭に蘇ってくるのだ。しかし私の妻は雲林の出身である。「赤牛麵」を食べた後の彼女の評価は「どうってことない味ね!」ということだった。ただ私と妹だけがあの一杯の麵を食べた時、心の奥で過去の埃にまみれた若かりし頃を思い起こしていたのだった。麵屋の店長がかつて話してくれた話では、ただ一杯の「赤牛麵」のために、はるばる花蓮から来る同郷人もいるという。さらには香港に嫁いだある同郷人が、飛行機で台湾に戻り、車に乗り継いで二林の「赤牛麵」を食べに来たこともあったそうだ。「赤牛麵」に魅力があるのはもちろんであるが、その小さな一杯の麵だけでなく、ふるさとに対する深い思いが原動力になっているのだ。 二林地域には二林四郷鎮(二林、大城、芳苑、竹塘を含む)という伝統的な呼び方がある。私はこの四つの郷と鎮の人々に対して特に関心を注ぎ、特別な感情を持っている。たとえば歌手の陳雷は大城郷の人であるが、彼の歌を聴くと、なにか格別な味わいを感じる。「保力達B」のテレビコマーシャルで芳苑郷出身の王功が懸命に励む「牡蠣採り人」を演じているのを見ると、彼らの苦労や勤労精神が思い出され、感動と敬服の気持ちで一杯になる。そのほか、台湾で有名な「三好米」の産地は雲林県の西螺鎮、二崙郷と彰化県の竹塘郷である。この辺りは濁水渓両沿岸に位置し、肥沃な土壌のおかげで米も特別甘くておいしい。そのため多くの消費者から広く好まれている。「三好米」の広告を見るたびに私はいっそう親しみを感じてしまう。また以前読んだことのある二林の小説家洪醒夫の大作である『散劇』は、20年後の今読み返しても未だに不思議と胸が高鳴る。中学時代の同級生であった洪碧雀(へきじゃく)氏が台南で裁判官になったという知らせを偶然耳にしたときも、特にうれしく感じたものだ。 屈原の哀郢(あいえい)のなかに「鳥は飛んで故郷へ返り、狐は死して必ず丘に首(まくら)す」とある。鮭が稚魚のときのにおいを頼りに川を上る。激流に遭い体が傷ついても卵を産むために生まれた場所に命がけで戻り、新しい命を受け継いでいく。生き物が斯くあるように、人もまた例外ではない。王粲(さん)の「登楼賦」には次のように述べられている。「鐘儀(しょうぎ)幽(とらわ)れて楚(そ)奏(そう)し、荘(そう)潟(せき)顕れて越吟(えつぎん)す。人情土(にんじょうど)を懐(おも)うに同じ、あに窮(きゅう)達(たつ)して心を異(こと)にせんや」。つまり人は空間の移動や時間の経過、また生活環境が変化したとしても、故郷に対するさまざまな思いは変わらないのだ。 しかしながら、生まれ故郷で過ごし成長していくうちに、就学や仕事等の関係で往々にして人生のもう一つの故郷が生まれることがある。これは命の不思議な旅路である。今まで私は台湾各地に住んだが、その中でも台南は私にとって第二の故郷といえるだろう。過去40年の歳月の半分を古都府城で過ごした私は、「成功大学医学院生理研究所」を卒業し、3人の子供もみな「成功大学病院」で生まれ、生粋の「府城人」となった。妻は台南で働き、私達はこの古都で産を成し、納税し、家族の生活圏はすべてこの台南地区内にある。武廟、天后宮は私たちの信仰の中心であり、七股の潟(せき)湖、土城の四草湖は私たちがバードウォッチングをするときによく出向く場所である。また孔子廟、赤崁楼、億載金城は子供たちの宿題のレポート作成のために必ず訪れるスポットで、廖家七面鳥ご飯、周氏海老巻、阿憨のお粥は私たちがよく休日に食べに行くところだ。また私には台南出身の3人のクラスメートがいるが、退役後、彼らは皆台北で仕事に就き、偶然にもみな台北県市で医院を開業したのだった。以前台北で彼らと話したとき、彼らは私に将来開業するならばどの都市を選ぶか?と聞いた。そのとき私の心の中には確かな答えがあった。それは台南である。そして私たちお互いの移住地は変わらないため、彼らは次第に台北人らしくなっていった。そして私はゆっくりと台南の生活圏に溶け込んでいった。 私の学生時代はまさにキャンパスフォークが流行していた時期で、寝室、教室、運動場、体育館などいたるところでギターを抱え「もしも」「オリーブの樹」「帰人砂城」「廟会」を唄う人を見かけた。もちろん私たちも例外ではなかった。ある時授業の前に一人のクラスメートが大きな声で歌い始めた。「もしも君が朝露ならば、僕はあの草になろう、もしも君があの雲ならば、僕は、、、」半分まで歌ったその時、国語の先生が入って来てこう言った。君たちのは歌を歌っているんじゃなくて、歌を声に出して読んでいるんだ、と。そこでクラスの学生が「じゃあ先生、どんな歌だったら歌を歌ったと言えるんですか?」と意地悪そうに聞いた。先生は大きな声で「鐘山青(しょうさんせい)と高山春(こうざんしゅん)だ。」と答えた。クラスメート達は先生一曲歌って下さいとみなで騒ぎ立てた。すると先生は惜しみなく「鐘山青(しょうさんせい)」を歌い出し、その歌声は教室中にこだました。歌い終わると学生達の熱烈な拍手喝采と、「アンコール」の声が鳴り止まなかった。このとき先生は我を忘れたように陶酔し、再び声高らかに「高山春」をうたい始めると、それに合わせ学生たちも一緒になって歌った。「高山は青く、水は青く、、、」。歌い終わった時、先生はまだ物足りなさげな様子だったのだが、私はその時の先生の気持ちがあまり理解できなかった。しかし私が教師となってからのある時、謝恩会でクラスメートが私に彼らの言う「国歌」を歌うように熱心に勧めてきたことがあった。私はそのとき本当の国歌だとばかり思っており、国歌の歌詞「三民主義、、、我が党の指針、、、」を頭の中で思い出していた。とそのとき聞こえてきたのは、アンディ、ラウの「忘情水」だったのだ。しかし悲しいことに私は歌詞の一句も歌うことができなかった。その時私は、あの先生が当時「鐘山青」、「高山春」を歌った意味がやっと分かったのだ。歌がうまいかどうかは問題ではない。あの時先生が「鐘山青(しょうさんせい)」、「高山春(こうざんしゅん)」を歌った時、先生は自分の恋人を抱きしめ踊ったかつての日々に思いを馳せていたのだ。過去の思い出を懐かしむということを、当時の私たちにどうして理解できただろうか?その時先生の頭の中に浮かび上がっていたのは過去の思い出だったということを、今になって悟ったのである。たとえばそれは、祖父や祖母にとっては「望春風」「雨夜花」であり、私達にとってはフォークソング、私の学生にとっては「忘情水」「吻別」、若い世代の人にとってはジェイ・チョウの「青花瓷(せいかし)」ジョリン・ツァイの「舞嬢(まいじょう)」であったりするのだろう。 私にとって人生の中で最も大切な思い出といえるのは、高校と大学の学生時代の頃だろう。高校時代、受験勉強の頃は忘れられない思い出であるけれども、 大学生活は更に思い出深いものだ。人生の出会いは縁あってこそ。各地の県や市から、それぞれ違う高校から同じ学科に合格し、同じ志を持ったクラスメートが一同に集まり、将来の夢や仕事に向かって目指していく、それはなんとすばらしい事であろうか! 大学には3種類の生活がある。(一つは授業。これは例えるなら主食のようなもの。次にサークル。これはデザートの果物のようなもの。そして恋愛。これは夜食とでも言おうか。)医学部に在籍中、大部分のクラスメートが自分の専攻を一生の生業とするため、膨大な授業数が私たちを息切れさせた。特に大変だったのは「跑檯」または「跑考」と呼ばれるものと「実際操作考」があった。この二つの試験は短時間で深い内容の解答を完成させなければならないため、実物(薬剤や人体)であろうと、あるいは顕微鏡の中の「寄生虫」や「病理組織切片」であろうと、多くの学生たちにとって冷や汗ものだった。その中でも「人体実験」は医学生にとって始めて医師としての重大な責任を感じさせる。私たちのような学生が恐れ多くも「人体の教師」の無言の教えを受けることになった。かつてある一人の「人体の教師」は生前重い病気を患っていた。彼は医学院学生の解剖研究として献体を希望する同意書にサインする時に感動的な一言を語った。「君たち、私の体でメスを入れる時には何度でもミスをしてもかまわない。しかし実際の現場でミスは絶対にしないでくれ。」と。このような無私奉献の精神は医学を学ぶ学生にとって一生忘れられないものであった。 さて大学では勉強会やサークル活動を通して、時には男女の間で愛の火花が散ることもあり、「キャンパスラブ」または「クラスメート同士のカップル」がひそかに誕生する。若者は狂ったように愛したり憎んだりする。だから青年の愛情はまるで「癌」のようだ。気づかないときは何事もないのように見えるが、いったん愛を知ると収拾がつかなくなる。本当は愛情というものは二人の心の交流なのだが、大学時代にはいつもそれがクラスメートやルームメートとの団体ゲームのようになっていた。クラス内のうわさはいつも国内外のヘッドラインニュースよりも皆の注目を引いていた。時には思うように事が運ばず、映画「ローマの休日」のような結末に終わることもある。また運よくカップルになるひともある。また意気投合しているカップルも最後には分かれてしまうこともある。しかしとにかくこのような経験はかけがえのないものだ。もし縁があれば最後にはゴールイン、人生の伴侶に出会えるかもしれない。それとは反対に、もし縁がなければ残念な結果に終わり、後にはただ無尽の思い出だけが残る。しかしそのほか大学生活は気楽で、ロマンチックで、そして心地良い一面もあった。小さな部屋でお茶を飲みながら人生の夢や豊富を心の通った友達と分かち合い、みなで地べた座って笑い、夜を明かして人生について語ったあの楽しい時は、しばしば家に帰るのも忘れるほどだった。 学校を離れて何年もたった「民国3.4.50年代の学生」にとって、過去の高校、大学生活はすべて思い出だけである。人生は往々にして回顧するしかできず、戻ることはできない。ただ振り返ってみることはできるが、再び戻ることはできない。これは心傷ついて涙を流すべきか?それとも酒で乾杯するか?心傷つき涙を流すなら憔悴する。乾杯すれば酔う。やはりこれは記憶の中においてゆっくりと味わうのがよいだろう。ともかく高校、大学の日々は辛酸苦楽の思い出に満ち溢れている。年老いたとき酒を飲みながらこの時代を語るとき、きっと自分は悔いのない青春時代だったと喜ぶことだろう。だから台積電公司の張忠謀理事長は次のように語っている;「人生は思い出を懐かしむに値する。私が思い出すことは中年になってからの最も活躍した出世時代のことではなく、33歳以前の学業と基礎を作った青春時代の成長期のことである。」と。 卒業後10年してクラスメートと母校で待ち合わせをし、夜中の一時に車で校門に着き、それぞれ車を止めた後、私たちはゆっくりとキャンパスへと歩いていった。まるで映画「哀愁」の主人公が昔のガールフレンドの面影を追って橋の上を歩いていたように、クラスメートたち |
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( 創作|散文 ) |