字體:小 中 大 | |
|
|
2010/12/21 05:54:43瀏覽710|回應0|推薦3 | |
故郷、母校
荘 順發 翻譯: 成大台文所博士班伊藤佳代 ふるさとへ戻ると、故郷だけでなく、幼い頃の日々が懐かしく思い出される 母校へ戻ると、母校だけでなく、青春の日々が懐かしく思い出される 私は彰化県の南端に位置する二林という農業の町に生まれた。一般にそこは三多と呼ばれ、つまり風と砂埃が多く、そしてヤクザ、飲み屋の多いところというイメージがもたれている。また、二林の旧称は「儒林」といって、文豪や学者を傑出するところでもある。 ともかくほかの人がどう思うとも、私にとってそこは幼年から青春期を過ごした思い出のある場所なのだ。 ところで、王維の雑詩に次の詩がある。 君 故郷より来たる 応(まさ)に故郷の事を知るべし 来たる日 綺窓(きそう)の前 寒梅 花を着(つ)けしや未だしや 王維は寒梅の様子を尋ねているのではなく、実はふるさとの人や物事、 そして幼い日々を思い浮かべているのである。 私は二林という所に深い思い入れがある。二林には牡蠣のオムレツや素食麵、肉づめ団子や赤牛麵など地方名物料理や、香り高い金香葡萄などの名物がある。が、それだけではなく、そこにはなんと言っても私たちの成長を見守ってくれた家族や親人がいる。 中でも特に「赤牛麵」という店名の由来について言うと、二林の野菜市場に掛けてある「赤牛麵」の看板を見ると、他の地域から来た人なら誰もが牛肉麵の店だと思ってしまうだろう。しかし実はこの「赤牛麵」は牛肉ではなく、豚肉入りの麵なのだ。というのは店長の廖学林氏が創業者である祖父の努力と成功を記念するため、祖父のあだなであった「赤牛」を店名にしたからである。このことは二林の人なら誰でも知っている。 私が記憶しているのは、台南から車で二林の「赤牛麵」を食べに行こうと提案した時のことである。妻はあまり気乗りがしない様子、それに引き換え私の妹は大変乗り気な様子で、私たちは往復200キロをかけて「赤牛麵」を食べに二林へ向かった。そこでいくつかの料理を注文し、腹一杯で満足した後、それはそれは楽しい気持ちで台南に帰ったのだった。私と妹にとってはあの一杯の麵には幼い頃の思い出が詰まっている。あの麵を食べると、麵の香りとともにたくさんの思い出が次々と頭に蘇ってくるのだ。しかし私の妻は雲林の出身である。「赤牛麵」を食べた後の彼女の評価は「どうってことない味ね!」ということだった。ただ私と妹だけがあの一杯の麵を食べた時、心の奥で過去の埃にまみれた若かりし頃を思い起こしていたのだった。麵屋の店長がかつて話してくれた話では、ただ一杯の「赤牛麵」のために、はるばる花蓮から来る同郷人もいるという。さらには香港に嫁いだある同郷人が、飛行機で台湾に戻り、車に乗り継いで二林の「赤牛麵」を食べに来たこともあったそうだ。「赤牛麵」に魅力があるのはもちろんであるが、その小さな一杯の麵だけでなく、ふるさとに対する深い思いが原動力になっているのだ。 二林地域には二林四郷鎮(二林、大城、芳苑、竹塘を含む)という伝統的な呼び方がある。私はこの四つの郷と鎮の人々に対して特に関心を注ぎ、特別な感情を持っている。たとえば歌手の陳雷は大城郷の人であるが、彼の歌を聴くと、なにか格別な味わいを感じる。「保力達B」のテレビコマーシャルで芳苑郷出身の王功が懸命に励む「牡蠣採り人」を演じているのを見ると、彼らの苦労や勤労精神が思い出され、感動と敬服の気持ちで一杯になる。そのほか、台湾で有名な「三好米」の産地は雲林県の西螺鎮、二崙郷と彰化県の竹塘郷である。この辺りは濁水渓両沿岸に位置し、肥沃な土壌のおかげで米も特別甘くておいしい。そのため多くの消費者から広く好まれている。「三好米」の広告を見るたびに私はいっそう親しみを感じてしまう。また以前読んだことのある二林の小説家洪醒夫の大作である『散劇』は、20年後の今読み返しても未だに不思議と胸が高鳴る。中学時代の同級生であった洪碧雀(へきじゃく)氏が台南で裁判官になったという知らせを偶然耳にしたときも、特にうれしく感じたものだ。 屈原の哀郢(あいえい)のなかに「鳥は飛んで故郷へ返り、狐は死して必ず丘に首(まくら)す」とある。鮭が稚魚のときのにおいを頼りに川を上る。激流に遭い体が傷ついても卵を産むために生まれた場所に命がけで戻り、新しい命を受け継いでいく。生き物が斯くあるように、人もまた例外ではない。王粲(さん)の「登楼賦」には次のように述べられている。「鐘儀(しょうぎ)幽(とらわ)れて楚(そ)奏(そう)し、荘(そう)潟(せき)顕れて越吟(えつぎん)す。人情土(にんじょうど)を懐(おも)うに同じ、あに窮(きゅう)達(たつ)して心を異(こと)にせんや」。つまり人は空間の移動や時間の経過、また生活環境が変化したとしても、故郷に対するさまざまな思いは変わらないのだ。 しかしながら、生まれ故郷で過ごし成長していくうちに、就学や仕事等の関係で往々にして人生のもう一つの故郷が生まれることがある。これは命の不思議な旅路である。今まで私は台湾各地に住んだが、その中でも台南は私にとって第二の故郷といえるだろう。過去40年の歳月の半分を古都府城で過ごした私は、「成功大学医学院生理研究所」を卒業し、3人の子供もみな「成功大学病院」で生まれ、生粋の「府城人」となった。妻は台南で働き、私達はこの古都で産を成し、納税し、家族の生活圏はすべてこの台南地区内にある。武廟、天后宮は私たちの信仰の中心であり、七股の潟(せき)湖、土城の四草湖は私たちがバードウォッチングをするときによく出向く場所である。また孔子廟、赤崁楼、億載金城は子供たちの宿題のレポート作成のために必ず訪れるスポットで、廖家七面鳥ご飯、周氏海老巻、阿憨のお粥は私たちがよく休日に食べに行くところだ。また私には台南出身の3人のクラスメートがいるが、退役後、彼らは皆台北で仕事に就き、偶然にもみな台北県市で医院を開業したのだった。以前台北で彼らと話したとき、彼らは私に将来開業するならばどの都市を選ぶか?と聞いた。そのとき私の心の中には確かな答えがあった。それは台南である。そして私たちお互いの移住地は変わらないため、彼らは次第に台北人らしくなっていった。そして私はゆっくりと台南の生活圏に溶け込んでいった。 私の学生時代はまさにキャンパスフォークが流行していた時期で、寝室、教室、運動場、体育館などいたるところでギターを抱え「もしも」「オリーブの樹」「帰人砂城」「廟会」を唄う人を見かけた。もちろん私たちも例外ではなかった。ある時授業の前に一人のクラスメートが大きな声で歌い始めた。「もしも君が朝露ならば、僕はあの草になろう、もしも君があの雲ならば、僕は、、、」半分まで歌ったその時、国語の先生が入って来てこう言った。君たちのは歌を歌っているんじゃなくて、歌を声に出して読んでいるんだ、と。そこでクラスの学生が「じゃあ先生、どんな歌だったら歌を歌ったと言えるんですか?」と意地悪そうに聞いた。先生は大きな声で「鐘山青(しょうさんせい)と高山春(こうざんしゅん)だ。」と答えた。クラスメート達は先生一曲歌って下さいとみなで騒ぎ立てた。すると先生は惜しみなく「鐘山青(しょうさんせい)」を歌い出し、その歌声は教室中にこだました。歌い終わると学生達の熱烈な拍手喝采と、「アンコール」の声が鳴り止まなかった。このとき先生は我を忘れたように陶酔し、再び声高らかに「高山春」をうたい始めると、それに合わせ学生たちも一緒になって歌った。「高山は青く、水は青く、、、」。歌い終わった時、先生はまだ物足りなさげな様子だったのだが、私はその時の先生の気持ちがあまり理解できなかった。しかし私が教師となってからのある時、謝恩会でクラスメートが私に彼らの言う「国歌」を歌うように熱心に勧めてきたことがあった。私はそのとき本当の国歌だとばかり思っており、国歌の歌詞「三民主義、、、我が党の指針、、、」を頭の中で思い出していた。とそのとき聞こえてきたのは、アンディ、ラウの「忘情水」だったのだ。しかし悲しいことに私は歌詞の一句も歌うことができなかった。その時私は、あの先生が当時「鐘山青」、「高山春」を歌った意味がやっと分かったのだ。歌がうまいかどうかは問題ではない。あの時先生が「鐘山青(しょうさんせい)」、「高山春(こうざんしゅん)」を歌った時、先生は自分の恋人を抱きしめ踊ったかつての日々に思いを馳せていたのだ。過去の思い出を懐かしむということを、当時の私たちにどうして理解できただろうか?その時先生の頭の中に浮かび上がっていたのは過去の思い出だったということを、今になって悟ったのである。たとえばそれは、祖父や祖母にとっては「望春風」「雨夜花」であり、私達にとってはフォークソング、私の学生にとっては「忘情水」「吻別」、若い世代の人にとってはジェイ・チョウの「青花瓷(せいかし)」ジョリン・ツァイの「舞嬢(まいじょう)」であったりするのだろう。 私にとって人生の中で最も大切な思い出といえるのは、高校と大学の学生時代の頃だろう。高校時代、受験勉強の頃は忘れられない思い出であるけれども、 大学生活は更に思い出深いものだ。人生の出会いは縁あってこそ。各地の県や市から、それぞれ違う高校から同じ学科に合格し、同じ志を持ったクラスメートが一同に集まり、将来の夢や仕事に向かって目指していく、それはなんとすばらしい事であろうか! 大学には3種類の生活がある。(一つは授業。これは例えるなら主食のようなもの。次にサークル。これはデザートの果物のようなもの。そして恋愛。これは夜食とでも言おうか。)医学部に在籍中、大部分のクラスメートが自分の専攻を一生の生業とするため、膨大な授業数が私たちを息切れさせた。特に大変だったのは「跑檯」または「跑考」と呼ばれるものと「実際操作考」があった。この二つの試験は短時間で深い内容の解答を完成させなければならないため、実物(薬剤や人体)であろうと、あるいは顕微鏡の中の「寄生虫」や「病理組織切片」であろうと、多くの学生たちにとって冷や汗ものだった。その中でも「人体実験」は医学生にとって始めて医師としての重大な責任を感じさせる。私たちのような学生が恐れ多くも「人体の教師」の無言の教えを受けることになった。かつてある一人の「人体の教師」は生前重い病気を患っていた。彼は医学院学生の解剖研究として献体を希望する同意書にサインする時に感動的な一言を語った。「君たち、私の体でメスを入れる時には何度でもミスをしてもかまわない。しかし実際の現場でミスは絶対にしないでくれ。」と。このような無私奉献の精神は医学を学ぶ学生にとって一生忘れられないものであった。 さて大学では勉強会やサークル活動を通して、時には男女の間で愛の火花が散ることもあり、「キャンパスラブ」または「クラスメート同士のカップル」がひそかに誕生する。若者は狂ったように愛したり憎んだりする。だから青年の愛情はまるで「癌」のようだ。気づかないときは何事もないのように見えるが、いったん愛を知ると収拾がつかなくなる。本当は愛情というものは二人の心の交流なのだが、大学時代にはいつもそれがクラスメートやルームメートとの団体ゲームのようになっていた。クラス内のうわさはいつも国内外のヘッドラインニュースよりも皆の注目を引いていた。時には思うように事が運ばず、映画「ローマの休日」のような結末に終わることもある。また運よくカップルになるひともある。また意気投合しているカップルも最後には分かれてしまうこともある。しかしとにかくこのような経験はかけがえのないものだ。もし縁があれば最後にはゴールイン、人生の伴侶に出会えるかもしれない。それとは反対に、もし縁がなければ残念な結果に終わり、後にはただ無尽の思い出だけが残る。しかしそのほか大学生活は気楽で、ロマンチックで、そして心地良い一面もあった。小さな部屋でお茶を飲みながら人生の夢や豊富を心の通った友達と分かち合い、みなで地べた座って笑い、夜を明かして人生について語ったあの楽しい時は、しばしば家に帰るのも忘れるほどだった。 学校を離れて何年もたった「民国3.4.50年代の学生」にとって、過去の高校、大学生活はすべて思い出だけである。人生は往々にして回顧するしかできず、戻ることはできない。ただ振り返ってみることはできるが、再び戻ることはできない。これは心傷ついて涙を流すべきか?それとも酒で乾杯するか?心傷つき涙を流すなら憔悴する。乾杯すれば酔う。やはりこれは記憶の中においてゆっくりと味わうのがよいだろう。ともかく高校、大学の日々は辛酸苦楽の思い出に満ち溢れている。年老いたとき酒を飲みながらこの時代を語るとき、きっと自分は悔いのない青春時代だったと喜ぶことだろう。だから台積電公司の張忠謀理事長は次のように語っている;「人生は思い出を懐かしむに値する。私が思い出すことは中年になってからの最も活躍した出世時代のことではなく、33歳以前の学業と基礎を作った青春時代の成長期のことである。」と。 卒業後10年してクラスメートと母校で待ち合わせをし、夜中の一時に車で校門に着き、それぞれ車を止めた後、私たちはゆっくりとキャンパスへと歩いていった。まるで映画「哀愁」の主人公が昔のガールフレンドの面影を追って橋の上を歩いていたように、クラスメートたちは歩きながら昔のキャンパスで飛んだりはねたり歌を歌ったりした頃を思い出していた。昔の運動場、図書館、寮を通り、当時座った椅子を撫でる。この情景はまるで李白の「春夜、桃の園に宴(えん)するの序」のようだ。また王羲之(おうぎし)「蘭亭集の序」に描かれた情景のようである。過ぎ去った日々がまるで目の前に再び現れてきたかのようで、みなお互い昔の失敗や面白いことをからかったりして話をしているうちに、もう朝方4時を過ぎていた。みな名残惜しい気持ちを抱えたままキャンパスを後にしたとき意外にも二人のクラスメートが涙を流していた。このとき崔(さい)護の「都城(とじょう)の南荘(なんそう)に題(だい)す」の名詩が私の頭の中をよぎった。 「去年の今日(こんにち)此の門の中 人面(じんめん)桃花(とうか)相(あい)映(えい)じて紅(くれない)なり。人面知らず 何れの処にか在(あ)る 桃花旧(きゅう)に依(より)て春風(しゅんぷう)に笑う」 一切の景物は昔のままであるが、人は去り、一世代新しい人が昔の人に取って替わる。さらに私は陳子(す)昂(ごう)の詩を思い出した。「前に古人を見ず、後(のち)に來者(らいしゃ)を見ず、天地の悠々たるをおもい、一人蒼然として涙涕(くだ)る」 私は平静を装って二人を慰めた。「泣くな泣くな!明日また仕事だぞ。」 車に戻りゆっくりと我が家へ向けて車を走らせた。車内でカーペンターズの「イエスタディ・ワンス・モア」の歌が流れてきたとき、知らず知らずのうちに私の目からも涙があふれ出てきてしまった。自分は彼らのように自分の気持ちを素直に表す勇気がないのだと感じ、心の中で思わずあの若かりし頃の歳月を想うのだった。 |
|
( 創作|散文 ) |